日めくりプロ野球 3月

【3月11日】1950年(昭25)  神主打法30分及ばず オールドルーキーが分裂1号本塁打

[ 2011年3月11日 06:00 ]

 時計の針は午後1時10分を過ぎようとしていた。西宮球場、毎日(現ロッテ)-西鉄(現西武)の1回戦、1回裏二死二塁で打席は毎日の4番・戸倉勝城(かつき)右翼手。西鉄先発の木下勇投手の内角高めストレートを脇を締めて腰の回転鋭く振りぬいた打球は、風速12メートルの強い西風をものともせず左翼スタンドへと吸い込まれた。

 パ・リーグ開幕戦で飛び出した先制の2点本塁打。これが07年まで計8万4225本(セ4万2223本、パ4万2002本)記録されている両リーグの本塁打の記念すべき第1号アーチだった。

 前日10日、ひと足早く開幕したセ・リーグもこの日、ようやく1号アーチが出た。松竹(後に大洋が吸収合併)の4番、“神主打法”の岩本義行右翼手が下関球場で放った満塁本塁打がそれ。しかし、戸倉の一発より約30分後の一発だったことから、2リーグ分裂後の初弾は35歳になるオールドルーキーの初打席初本塁打となった。

 戦前、法政大学の俊足スラッガーとしてその名を球界にとどろかせていた戸倉。卒業時巨人が熱心に誘ったが、職業野球がまだ“道楽者”がやる仕事と思われていた時代。戸倉は入団を拒否し、中国に渡って前途有望な若者が就職する南満州鉄道に入社。クラブチームの満州倶楽部で野球を続けた。

 50年(昭25)、2リーグ分裂で1リーグ時代より球団数が増えたプロ野球は、ノンプロの有望選手を年齢に関係なく手当たりしだいスカウトした。戦後、中国から引き揚げ大洋漁業の野球部でプレーイングマネジャーを務めていた戸倉は、セ・リーグに加盟することになった大洋ホエールズではなく、激しいスカウト合戦の末、毎日オリオンズに入団した。

 都市対抗野球を主催する毎日は当初、ノンプロのスター選手を中心にチームを結成しようと声をかけ、課長待遇月給2000円だった戸倉に契約金40万円と月給は20倍の4万円を提示し説得。キャベツを酒の肴にする不思議な酒豪は「これだけあれば、女房子供に遠慮せず酒が飲める」とプロ入りを決意した。

 毎日の4番打者は阪神から移籍の別当薫中堅手という見方が普通だった。しかし、湯浅禎夫監督が中心打者として開幕4番を任せたのは戸倉だった。

 29歳、今脂の乗り切っている好打者別当を差し置いて、若手にロートル扱いされつつあった戸倉を4番に、別当を3番にしたのは「戸倉が一番遠くへ飛ばす。野球は年齢でやるもんじゃない」という、きわめて単純な湯浅監督の発想からだった。

 35歳の新人は活躍した。110試合で2割6分3厘ながら21本塁打96打点で、毎日の初代パ・リーグチャンピオン、そして日本一に貢献。結果的には3割3分5厘、43本塁打105打点の別当の方が数字を残したが、チャンスでの勝負強さは打率、本塁打の割には別当とわずか9打点しか違わないことが証明している。

 戸倉はもう一つ「1号本塁打」を記録している。同年7月5日、後楽園での大映(現ロッテ)10回戦でスタルヒン投手から放った15号本塁打こそ、日本のナイターで初めての本塁打。ちなみにセではあの岩本がナイター1号アーチを放っており、2人で歴史に残る本塁打を記録しているのはなんとも面白い。

 パ・リーグ結成の主導的立場にあった毎日は翌51年「リーグ反映のために」と、戦力均衡の観点から主力選手の戸倉を阪急に譲った。戸倉は55年、その阪急で40歳を迎え、打率3割2分1厘をマーク。40歳台でのこの高打率はいまだにプロ野球記録である。しかも盗塁は21個を記録。通算1065盗塁をマークした、同じ阪急の福本豊外野手が40歳を迎える87年に6盗塁だったことを考えれば、かなり元気な不惑であった。

 実働8年で通算75本塁打、打率2割8分3厘。盗塁115個は法大時代の韋駄天ぶりを彷ふつさせる。節制もせず、酒のにおいがしたまま球場入りすることもよくあった。なのになぜそんなに動けるのか?の問いに戸倉は決まってこう言った。「戦争中、満州でつらい思いをした。重い大砲を担いで野山を歩いた。それを思えば野球なんぞ楽なもんじゃ」。

 後年、阪急、東京(現ロッテ)で監督を務めるも成績は振るわなかった。良くも悪くも豪快な性格。そのおおらかさは選手を掌握する監督には向いていなかった。監督としての通算成績は226勝284敗。大記録に縁はなかったが、記憶に残る記録を残した選手だった。(08年3月11日掲載分再録)

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