日めくりプロ野球 3月

【3月3日】1991年(平3) “くせ者”の恥ずかしすぎる4打席連続三振デビュー

[ 2011年3月3日 06:00 ]

 三塁側の広島ベンチから巨人の背番号37に野次が飛ぶ。「どうしたホームランバッター!変化球のお化けが怖いのかぁ?」「絶好球やったのに。曲げられると打てへんからしゃあないか」--。

 言い返すことはできなかった。スライダーのすっぽ抜け、明らかに甘い球だったが、バットが金縛りにあったように動かず、見逃しの三振。これで秋村謙宏投手に2打席連続三振。前日からだと2試合4打席連続三振となった。

 「こんなはずじゃない。今度は絶対打つ」と自分に言い聞かせたが、自信は全くなし。近藤昭仁ヘッドコーチが何かアドバイスしてくれたが、何も覚えていない。頭の中は完全に混乱していた。

 春夏の甲子園で史上2位タイの合計6本塁打を放った超高校級スラッガー、大阪・上宮高出身の元木大介内野手のこれがオープン戦デビューだった。子どもの頃からあこがれていた大好きなジャイアンツのユニホームを着るために、89年のドラフトで福岡ダイエーの1位指名を拒否し、浪人生活をして果たした入団。実戦から遠ざかっていたとはいえ、恥ずかしい内容の4三振だった。

 2日、ロッテとのオープン戦では2年目の小宮山悟投手に完全に遊ばれた。最初の対戦は6回、先頭打者の元木はストレート3球でカウント2-1と追い込まれると、ボールからストライクゾーンへ縦に落ちるブレーキのきいたカーブがインコースへきた。「ヤバイ、当たる」。元木はそう判断し、頭を下げしゃがむような格好になった。ところが、ボールはきちんと内角低めいっぱいにコントロールされ、青柳進捕手のミットに収まり、永見武司球審の右手が高々と上がった。

 死球どころか、見逃しの三振。2回目の対戦は「積極的に行こう」と初球から手を出し、ボール気味のシュートをファウル。2球目は外角の低めいっぱいのストライク。1球遊んでくるケースだったが、ロッテバッテリーはこの鳴り物入りのルーキーを完全に見下していた。スライダーが外角に決まり、また見逃し三振。バットはピクリとも動かなかった。

 そしてこの日の広島戦でも秋村のスライダーに全く手が出ず2三振。もう一生打てないんじゃないか…。打てないことの方が不思議だったこれまでのバッティングに対する自信はもろくも崩れた。結局オープン戦では17打数4安打9三振。契約金9000万円、年俸840万円で入団した元木の半分以下の条件で1年前中日入りした、同級生の種田仁内野手が30打数13安打と打ちまくり、2年目にして開幕1軍を勝ち取ったのとは、あまりにも対照的だった。

 1年目はファーム暮らし。2年目に初ヒット、3年目に初本塁打。甲子園のスーパースターにしては、階段を一歩ずつ登るような地道なスタートとなったが、ルーキーイヤーに変化球が打てずに悩み苦しんだことがかえって福に転じた。

 引っ張らずに、右へ打つ打撃をファームで徹底的に身につけ、これが持ち味となった。甲子園のスターからバイプレーヤーへ。右打ちのチームバッティングに加え、隠し球、併殺崩れを狙う激しいスライディング…これほどイメージが変わったプレーヤーは珍しく、長嶋茂雄監督は敬意を込めて“くせ者”の称号を与えた。

 06年オフ、巨人の選手だった仁志敏久内野手は「巨人という名のスポーツをやっているわけではなくて、僕は野球という競技をしている」と言って、出場機会を求めて横浜へのトレードの道を選んだ。しかし、元木は最後まで巨人軍にこだわった。05年オフ、球団は新天地としてオリックス、楽天などへのトレードの道を模索したが、それならと引退を決意。「巨人でいらないと言われた日が僕の野球人生が終わる時」と自ら選手生活にピリオドを打った。

 大阪球場に通い、南海ホークスが大好きだった野球少年は、小学6年生の夏休みに上京した際に、巨人の監督だった王貞治監と一緒に写真に写ったことを機に、巨人に入団することが大きな夢となった。それ以来、バットを置く時はG戦士としてという美学が元木の思いの中核にあった。

 15年の現役生活で通算891安打。甲子園を騒がせた大物にしては物足りない数字ではある。本塁打もふたケタに達したことは一度もなかった。それでも印象に残る選手だったことは間違いない。(08年3月3日掲載分再録)

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