日めくりプロ野球 3月

【3月1日】1985年(昭60) 西武の新人捕手、卒業式で母校に100万円寄付

[ 2011年3月1日 06:00 ]

 卒業式シーズンに入った。プロ入りした高校生もキャンプ、オープン戦から一時帰郷して出席し、友人や家族に祝福され、プロでの活躍を期待されながら送り出される。

 そんなシーンが各地で繰り返される中、西武のドラフト1位ルーキー、大久保博元捕手は茨城・水戸商高の卒業式を終え、母親とともに校長室を訪れ、校長にのし袋に入った100万円の小切手を手渡した。契約金4500万円(推定)から捻出したものだったが、出身の野球部に用具などで寄付する形はよくあっても、学校自体に寄付するケースはかなり珍しかった。

 卒業証書のほかに感謝状を校長から受け取った大久保は「野球部だけでなく、お世話になった学校全体に贈りたかった。学校のために自由に使ってほしい。物だといろいろ考えなきゃいけないからお金にしました」。父親を2歳の時に亡くし、「かあちゃんが大変な思いをして育ててくれた」(大久保)という環境で、感謝の気持ちを持って育ってきた18歳の青年なりに考えての寄付。「お金はオレがプロに入ってから稼げばいい。契約金はかあちゃんにあげます」との言葉に、「何十人と新人選手に接してきたが、即座にこんなことを言ったのは初めて聞いた。ジーンときちゃったなあ」と、入団交渉の席上、キャリア15年の浦田直スカウトを泣かせた。

 当時史上最多の高校通算52本塁打、遠投は125メートルを記録した大久保。「木製バットで打った本塁打がほとんど」というスラッガーは近鉄を除く11球団があいさつに訪れたが、「かあちゃんに寂しい思いはさせられない」と、意中球団は在京6球団。できれば子どもの頃からファンだった巨人か黄金期を迎えつつあった西武に入りたかった。

 小学生の時から野球選手になって親孝行することを考えていた大久保のプロへの第一歩は、元巨人の加倉井実外野手との出会いだった。水戸商高OBで引退後は郷里で下宿屋を営んでいたが、偶然大久保のプレーを見た加倉井はその素質にほれ込み「オレがプロに入れてやる」と基礎体力からみっちり仕込んだ。

 野球に関係のないこと、差し障りのあることはすべてやらせず、けがをするからと中学の体育の授業でもサッカーや器械体操などは“さぼり”に徹した。

 西武は田淵幸一一塁手の引退で、将来的に主軸を任せられる大砲が補強ポイントだった。即戦力という観点から第1希望は東京六大学で19本のアーチを放った、明大野球部史上最多本塁打男・広沢克己一塁手。しかし、ドラフトで日本ハム、ヤクルトと競合し、ヤクルトに交渉権をさらわれた。西武は打者でぱ第2希望だった、高校生としては最高の評価をしていた大久保を外れながら1位で指名した。ちなみにこの年西武は2位で田辺徳雄内野手(山梨・吉田高)、3位で高山郁夫投手(元プリンスホテル)を指名したが、すべて競合で当たりくじを引けなかった外れでの指名だった。

 入団後、広岡達朗監督は捕手としての大久保に早くも見切りをつけ、内野転向で打撃センスを最大限生かそうとした。キャンプでは1軍に帯同し、快音を連発。開幕ベンチ入りも視野に入ってきたが、さすがに実戦となるとプロは厳しかった。5打数無安打でシーズンが始まると2軍暮らし。ようやく7月に1軍に呼ばれ、初安打が出たのは1軍3打席目の8月14日、ロッテ14回戦。母親が観戦に訪れた西武ライオンズ球場で9回に代打で佐藤政夫投手の初球を叩き中前打を放った。

 1年目は結局この1安打のみ。2年目は指定強化選手扱いになったが、監督が広岡から森祇晶に代わると、流れは大きく変わった。85年のドラフトで西武は巨人を熱望していた、PL学園高の清原和博獲得に成功。これで田淵の穴が2年越しで埋まると、大久保の存在価値は希薄になった。

 「今すぐに必要はない」と支配下登録選手を抹消され、練習生扱いで米マイナーリーグへの留学を球団から言い渡された。後に愛称となる“デーブ”は留学を引率した、かつて稲尾和久投手とバッテリーを組んだ名捕手、和田博実コーチに付けられたものだった。

 結局、西武ではその才能を開花できずに迎えた7年目の92年5月。ライオンズが巨人に「中尾孝義捕手を譲ってほしい」とトレードを打診、開幕ダッシュに失敗し最下位にあえいでいた巨人は起爆剤にと長打力が魅力の大久保を要求し、シーズン中の交換が成立した。大久保はその起爆剤の役割を果たし、途中入団ながら72安打15本塁打43打点、と西武での通算記録をも上回る活躍を見せた。(08年3月1日掲載分再録 一部改変)

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