日めくりプロ野球 3月

【3月24日】1967年(昭42) 日本製バットで本領発揮 苦労人ロバーツ、来日初アーチ

[ 2009年3月1日 06:00 ]

真面目で時間に正確な助っ人ロバーツは在籍中1度もトラブルを起こしたことがない超優良助っ人。69年には首位打者争いもした
Photo By スポニチ

 【サンケイ5-3東映】決してやさしい球ではなかった。カウント1-2からの4球目は、左打者から見れば外へ逃げていく右投手のシュート。長いリーチが低めのボールをバットの芯でとらえた。
 逆らわずはじき返した打球は左中間スタンド中段まで飛んだ。来日30打席目、オープン戦ではあったが、サンケイ(現ヤクルト)の新外国人、デーブ・ロバーツ外野手の初本塁打だった。「ヤマは張っていない。自然とバットが出た。ようやく1本出てやっていけそうな気がした。日本のバットが良かったのだろう」。生真面目な黒人選手は初めて白い歯をみせた。

 1シーズンとはいえ、ピッツバーグ・パイレーツに在籍した元大リーガー。20本塁打を期待した飯田徳治監督はルー・ジャクソン外野手と3、4番を組ませる構想だったが、オープン戦12試合で打率は2割5分。本塁打は1本もなかった。悩みつつあった助っ人を監督は気遣い、この日は「少し気楽に打たせるか」と5番に下げての試合だった。
 ロバーツがその長打力を発揮したのは、打順ではなく1本のバットとの出会いだった。試合前、チームの柱でもあるベテラン豊田泰光内野手をつかまえ、バット談義をしていると、ロバーツはバットを取り出し「このバットはどう思う?」と尋ねた。それはロバーツが米国から持参した長くて重たいバットより、軽くてやや短い日本製のバットだった。豊田がバッティングケージに入って2、3球打った。「このバットがいいんじゃないか。ユーは今、バットを振るのがつらそうだ。少し軽くしたほうがいい」。プロ16年目、33歳になったロバーツにとって、体力的に重くて長いバットを振り回すのはいつの間にか負担になっていたのだ。
 国産バットに代えたこの日、本塁打を含む2安打2打点。以後7シーズンにわたる日本での「天国のような野球生活」(ロバーツ)が始まった。1年目に28本塁打を放ち、以後40本、37本と量産。不動の本塁打キング、巨人・王貞治一塁手とタイトル争いをするのは、決まってロバーツだった。
 パナマ出身。7人兄弟の長男だが、家計は苦しかった。読書が好きで将来は学問で身を立てたいと思っていたが、進学する余裕はなく無類の運動神経を生かして野球で生計を立てようと米国へ。マイナーリーグを転々とし、やがて家庭を持つも冬はバット1本かついでメキシカンリーグなどでアルバイト。それでも暮らしは楽にならなかった。
 やっとメジャーに昇格も、今では考えられないほどの人種差別で再度マイナーへ。そんな折に日本からの話が舞い込んだ。1年目の年俸は600万円。米国の6倍近い額に「もうアルバイトせずに済む」と二つ返事で来日。4人の子供と夫人も日本に定住するつもりで連れて来た。
 口ぐせは「日本は平和で差別のない、国民が親切な国。引退後はコーチをしてずっと住んでいたい」。週に1度家族で天ぷらを食べに行き、シーズンオフも日本に残り、上智大学で英文学と数学を学んだ。一応高卒ということになっているが、学費が続かず中退。「やりたかった学問をしているだけ。それに子供に何か聞かれたとき何も知らない父親じゃ恥ずかしいしね」。
 73年6月に突然球団事務所に呼ばれて解雇。ヤクルトはバリバリの大リーガー、ジョー・ペピトーン一塁手が入団することになり、当時1軍で使える外国人は2人だったことから、好調のアルト・ロペス外野手と天秤にかけられ切られてしまった。39歳の誕生日の1週間前のことだった。
 誕生日の1日前に近鉄が拾ってくれたが、動体視力の衰えは顕著だった。36試合で2本塁打でまた解雇。大好きな日本と別れなければならなかった。米国に帰り、マイナーリーグで打撃コーチを歴任。スワローズで放った181本塁打はアレックス・ラミレス外野手(08年から巨人)に破られるまで30年以上外国人が放った本塁打の球団記録だった。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る