日めくりプロ野球 3月

【3月18日】1940年(昭15) 伝説のノーコン右腕、9四死球でノーヒットノーラン達成

[ 2009年3月1日 06:00 ]

25歳で来日したが、当時から太鼓腹だったという亀田。投げるテンポも早く、捕手が捕り損なうと顔を真っ赤にして怒ったという短気な性格だった
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 太平洋戦争が始まる前の1リーグ時代の職業野球(プロ野球)草創期には、“伝説”という冠が付く選手が数多くいるが、実働4年で65勝をマークしたイーグルス(後に黒鷲、戦前で消滅)の亀田忠投手は、信じられない“伝説”ばかりの右腕であった。
 開幕4日目のこの日、西宮球場でのライオン(後の松竹)1回戦に先発した亀田は、見事ノーヒットノーランを達成した。スリークォーターから投げ込む重い速球で安打を許さなかったわけだが、与えた四死球がなんと9個。ポイントで2、3本ヒットが出ていれば、5-0のスコアもどうなっていたか分からない試合だった。

 2回には一死満塁、3回には一死一、三塁とピンチを作り、いずれも併殺打で切り抜けた。目立つための“自作自演”のような投球だったが、この試合5点中4点は亀田自身のバットで叩きだしたもの。本当にワンマンショーだった。
 「当時のストライクゾーンはとても狭くてね」と当時を振り返り、亀田はいたずらっぽく笑ったが、どうもそればかりできない。ノーヒットノーランを演じた40年、26勝(23敗)を挙げた亀田が出した四死球は56試合登板でなんと283個。投球回数も456回3分の2と今のエース級の投手と比べても2倍以上だが、1試合平均5・1個は08年にセ・リーグで一番四死球を出した内海哲也投手(巨人)の同平均2・6個と比べても多く、やはり制球が良いとは言えない。奪三振はこの年296個。「三振か四球か」といわれた投手だが、まさに見ていてハラハラドキドキの投手であったことは想像に難くない。年間283四死球はプロ野球史上いまだに最多記録。今後も更新されることはなさそうだ。
 “伝説”はまだまだある。ノーヒットノーランは41年4月14日の阪神戦(後楽園、1-0)でも達成したが、39年8月3日の名古屋金鯱(きんこ)戦でも無安打投球をしたが、相変わらずの10四死球。初回、満塁から押し出しで1点を与えてしまった。沢村栄治(巨人)、外木場義郎(広島)の2人しか達成していない3度のノーヒットノーラン(完全試合を含む)投手として、球史に名を残したはずだったが、ノーコンだったばかりにその機会を逃した。
 被安打1の試合も計10試合あった。400勝投手、金田正一投手でさえ20年間944試合で9試合しかない被安打1試合。4年間の179試合で10回というのだから飛び抜けて多いことがわかる。
 実は隠れた奪三振記録も持っている。1試合最多奪三振の日本記録は95年4月21日にオリックス・野田浩司投手が記録した9イニングで19個だが、亀田は38年9月16日の巨人戦(甲子園)で20奪三振を記録した。ただし、延長14回まで投げての話。参考記録でしかないのが残念だ。
 父親が山口県岩国市出身だが、ハワイに移民し、プロ野球の世界に入った時は米国籍の日系2世。ハワイの日系人チームの投手だった。顔は純然たる日本人だったが、アメリカナイズされた投手でマウンドではいつもチューイングガムをかんでいた。
 弟2人も日本で野球をしており、そのうち2番目の弟の亀田敏夫投手は阪神に39年から2年在籍し7試合2勝1敗の成績を残した。シーズン途中の41年6月、日米関係悪化によって日系人でも米国籍の人間は本国への帰国命令が出たため、ハワイへ戻り退団。戦後はハワイ州政府に出仕し、日本にも何度か来日している。「世話になった日本の野球界に恩返しがしたい」と言いながら、実現せず76年に脳梗塞で死去。64歳の若さだった。

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