日めくりプロ野球 3月

【3月14日】1960年(昭35) スピードはこんなもん?“青い目の日本人”スタンカ、実は…

[ 2009年3月1日 06:00 ]

メジャー1勝だったスタンカだが日本では外国人投手初の100勝を達成。外国人投手の通算100勝以上はバッキー(阪神)、郭泰源(西武)とスタンカの3人しかいない
Photo By スポニチ

 来日4日目。大阪球場での南海の全体練習に身長1メートル96の大男が初めて参加した。「まだ時差ボケはあるけれど大丈夫。きょうはピッチングを見せるよ」とウインクしてランニングの列に加わったのは、米オクラホマ州からやってきたジョー・スタンカ投手。前年宿敵巨人を5度目対決で倒し、悲願の日本一を勝ち取った南海がエース杉浦忠投手の負担を軽くしようと、当時まだ珍しかったアメリカへの旅行を斡旋する観光会社を通じて入手した、8ミリビデオを見ただけで獲得した右腕だった。
 予告通りブルペンに入ったスタンカ。触れ込みでは「長身から投げ下ろす快速球が武器」で、ストレートは150キロ近く出るというものだった。鶴岡一人監督以下、首脳陣が見守る中、ウォーミングアップを終えて、いよいよ捕手を座らせての投球に入った。

 まずストレートを20球投げた。なるほどコーナーに投げ分けることができ、コントロールは良さそうだ。しかし、肝心の球速は驚くほど速い、というものではなかった。スピードガンなどない時代。正確には分からないが、いいところ130キロ台後半といったところ。「ウチの2軍にもあの程度の球を放るやつはおるのお」。鶴岡監督の声のトーンは明らかに低かった。
 その直後だった。捕球する石垣一夫捕手にさえ何の前触れもなくスタンカは大きく縦に割れる変化球を投げた。右打者から見れば頭上から急角度で落ち、外角低めいっぱいに決まるカーブ、いわゆるドロップといわれる縦のカーブだった。慌てた石垣はこれを捕りそこない、後逸した。「しっかり捕らんかい」と鶴岡監督のしわがれた声がこだました。次もドロップ。石垣はなんとか捕球したが、その変化の大きいことに目を丸くした。
 次の球は直球の軌道から少し沈んだ。「フォークボールか?」と石垣は思ったが、実はシンカー。右打者の外角低めに落ちる、スタンカの隠れた決め球でもあった。「あの長身だし、ストレートが速ければ10や15勝てると思っていたが…なんや変化球投手か…」。鶴岡監督はさえない表情でブルペンを後にした。親分と言われた鶴岡監督は、外国人投手ならストレートが速くなければ、意味がないと思っていた。
 この外国人投手がその後、日本球界初の通算100勝をマークした助っ人になるとは、誰も予想できなかった。1年目の60年に17勝すると、63年まで1年を除いて毎年2ケタ勝利。内角の直球を見せ球に使い、鶴岡が評価しなかった、ドロップとシンカーを外角に決めた勝ち星を稼いだ。
 64年には26勝7敗で南海の優勝に貢献、MVPを獲得し、日本シリーズでは阪神相手に3完封。特に南海が2勝3敗と王手をかけられた、第6、7戦では連続シャットアウトで5年ぶりの日本一をもたらした。連投が当たり前だった当時の日本球界で、外国人投手はローテーションを守ることをかたくなに要求したが、スタンカは鶴岡監督の連投指令にさからわず登板。「お前は青い目をした日本人や」と賞賛した。
 メジャーではホワイトソックスで2試合1勝0敗の数字しか残していない。マイナーリーグ時代に「20回以上は引越しした」と本人が言うほど、チームを転々。日本行きを決めたのは「狭い日本なら引越しせずに済みそうだから」といった理由から。未知の国だった日本だったが、人情に厚い大阪の街が好きになり、シーズンオフも米国に帰国せず、そのままキャンプに参加したことも。球団は航空運賃をボーナスとしてスタンカに手渡した。
 65年のオフ、神戸の自宅で長男をガス中毒事故で亡くし「日本にいれば悲しいことを思い出す」と南海を退団。しかし、日本びいきになっていた夫人の勧めで再度来日し、66年は大洋と契約。6勝に終わったが、最後の勝利が9月27日の巨人戦で、これが通算100勝目だった。
 帰国後は自動車のセールス、不動産業、刺しゅう工場経営などさまざまな仕事に就いたがどれもうまくいかず、85年に南海OBの誘いで来日し、旧交を温めた際にはカンパで飛行機代を工面してもらったほどだった。後に息子たちが会計事務所を開くと、これが成功。最高経営責任者となり、長年の苦労が報われた。
 

続きを表示

バックナンバー

もっと見る