日めくりプロ野球 3月

【3月2日】1976年(昭51) 今年はひと味違うぞ“ジョン損”から“ジョン尊”に変わった場外弾

[ 2009年3月1日 06:00 ]

76年8月23日、後楽園での中日21回戦で決勝本塁打を放った瞬間のジョンソン。打撃だけでなく、二塁手としてダイヤモンドグラブ(現ゴールデングラブ)賞も受賞した
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 【ロッテ4-3巨人】ロッテのエース・村田兆治投手が自信を持って投げた外に逃げるカーブだった。ひと呼吸“グッ”とためた後、長いリーチを伸ばしながら踏み込んだ。心持ちバットの先だったかもしれない。会心の当たりではなかったが、うまく拾った打球は美しい放物線を描いて、鹿児島県営鴨池球場の左翼場外へと消えていった。
 連日のオープン戦2号本塁打を放ったのは、巨人の2年目の助っ人デーブ・ジョンソン二塁手。09年、WBC米国代表のジョンソン監督その人だ。

 来日1年目は、とにかく球を曲げられると泳いでおしまいだった。アトランタ・ブレーブスで73年に43本塁打を放ったバリバリのメジャーリーガーが来日1年目は1割9分7厘、13本塁打。巨人初の青い目の外国人選手は助っ人どころか“ジョン損”とも新聞には書かれ、球団史上初の最下位の元凶ともで言われた。プライドをズタズタにされた元大リーガーはかたくなな心を開き、ベースボールから野球に順応することで活路を見出そうとしていた。
 バッターボックスの立ち位置を後方の線ギリギリまで下げて球を呼び込み、ドアスイングにならないよう脇を軽くしめることを心がけた。腕の長いジョンソンなら脇をしめても外角ギリギリのところも十分届く。国松彰打撃コーチのアドバイスを素直に聞き入れた結果の村田からの特大弾だった。
 前日の1日は同じロッテの三井雅晴投手のインコースの速球をたたいての本塁打だった。内角の速球にも弱かったジョンソンだが、これも大振りせずコンパクトに振り抜くと、ピンポン球のように飛んでいった。2試合連弾は76年のJ砲の大いなる進化を物語っていた。
 変わらなければ生きて行けない、切羽詰った事情もあった。大リーグでベストナインにも選ばれ、オールスターゲームにも出場したジョンソンはこの時既に33歳。日本での野球生活がうまくいかなければ、年齢的に見て帰国しても再度メジャーでやれる可能性は低いと言わざるを得なかった。「大学時代に専攻していた数学の教師になるか、資格を持っている不動産鑑定士になるか、とにかくある程度の成績を残さなければ、野球で食べていけなくなる」(ジョンソン)という危機感があった。
 当時の外国人としては異例の2月1日のキャンプインからチームに合流。走って走って走り抜いて、体重を絞った。嫌がっていた日本特有の特打、特守にも取り組んだ。メジャー全盛期時代の体のキレが戻り、どんな球にも対応できるようになったことで、日本の投手の変化球攻めにも戸惑わなくなった。
 主に6番に座り、打率2割7分5厘、26本塁打、74打点と1年目とは見違える成績を残し、巨人の最下位から優勝への逆襲に貢献。76年10月16日の広島26回戦では、優勝を決める勝ち越しの26号本塁打を広島市民球場の上段に運んだ。
 しかし、数字を残したことでジョンソンは少々“図に乗った”。王貞治一塁手と同額の年俸6000万円(推定)と5年契約を要求、監督の采配にも意見する権利を主張、腰を抜かすような条件提示に巨人は3年目の契約を結ばなかった。巨人入りの前年、ロッテとともに獲得に積極的だった近鉄は、再度名乗りを上げようとしたが、巨人サイドからもたらされたジョンソンの法外な要求はのめないとして入団を見送り、ジョンソンの日本でのキャリアは終わった。
 その後86年に前年最下位のニューヨーク・メッツを世界一にするなど、監督として名声を上げたことは有名。大リーグ通算1148勝の実績を考えれば、巨人との契約で長嶋茂雄監督の采配に口をはさましてほしいとしたのも、相当自信があったからに違いないと今なら思えてしまう。
 WBCで「最大の敵は日本と韓国」と答えたジョンソン監督。2次ラウンド以降対戦するチャンスは訪れるだろうか。メジャーの豪快さと日本野球で学んだ緻密さを持つジョンソンの采配にも注目したい。
 

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