日めくりプロ野球 3月

【3月26日】2000年(平12)“川崎劇場”ついにフィナーレ 10本塁打で花添える

[ 2008年3月20日 06:00 ]

昭和50年代の川崎球場。一塁側の大洋応援団がフェンスに登り、旗を振っているのが時代を感じさせる。ライトスタンドが極端に狭いのは後ろを道路が通っているためで、川崎球場の特徴だった
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 普段見向きもしないものでも、これが最後となると、どうして人は押し寄せてくるのだろう。閑古鳥が鳴く、という決まり文句で語られることが圧倒的に多かった、川崎市川崎区の川崎球場がプロ野球開催としてはこの日の横浜-ロッテのオープン戦をもって閉場。さまざまな名勝負の舞台となった48年の歴史をもつ老舗球場は、2万1000人の観客と中に入りきれない数千の野球ファンでごった返した。
 「震度5以上の地震でスタンドが崩落する可能性がある」という川崎市の耐震検査結果が出たのは99年12月。建設から大規模な補修工事もされなかった球場の傷みは激しく、市側はグラウンド部分は残し、スタンドの解体を決定した。
 当初、横浜スタジアムで行われる予定だった試合を川崎でということになったのは00年1月。大洋ホエールズ時代、55年(昭30)から77年まで本拠地としていたベイスターズ側から提案され、大洋の後を受け78年から91年までフランチャイズにしていたロッテが応じ「川崎劇場ファイナルシーン」と銘打って興行された。
 公称で収容人員3万人の川崎球場だが、実際は2万3000から2万5000人。最後の試合で2万1000人で満員札止めにしたのは、耐震性を考慮したことと「長らく大観衆を収容していなかったので建物が弱っている。何かあってからでは取り返しがつかない」との球場側の判断からだった。1800円で全席自由のチケットは完売。ダフ屋は10倍の価格の1枚1万8000円で売りさばいていた。「川崎で売ったのは初めて」とダフ屋自身も驚いていた。
 川崎で「150勝近く勝った」という、通算201勝投手、平松政次と60年(昭35)の大洋日本一の司令塔、土井淳捕手のバッテリーによる始球式の後、試合は始まった。序盤、横浜のマシンガン打線が炸裂。ロッテ先発の黒木知宏投手から2回までに7安打を集め4点を先行したが、ベイスターズ投手陣が乱調。2番手の斎藤隆投手以下3人がロッテ打線に10本の本塁打を浴び、なんと22点を献上。「公式戦じゃなくてよかったよ」と権藤博監督が苦笑いするほどの大敗を喫した。
 堀幸一二塁手、ジェフ・バリー左翼手、初芝清三塁手、小坂誠遊撃手の4人はなんと2ホーマずつをかっ飛ばした。中でも3年間で公式戦計7本塁打の小坂は8回に1イニング2本。「まさか2本も打てるとは…。何かヘンなこと起きないですかね」と小坂。両翼90メートル(実際は89メートル)、左中間、右中間ともふくらみの小さい球場は元々本塁打量産スタジアムではあったが、打撃技術が向上した現在のプロ野球ではもはや公式戦で使用するには無理があることを10本の本塁打は物語っていた。
 大洋が三原脩監督時代の60年代に「ホームランが多く出るように」とホームベースを2メートル前に設置したことが、本塁打量産の隠された秘密でもあった。その後、ロッテ・金田正一監督が元の位置にホームベースを戻すように要請。要求は受け入れられたが、元来狭い球場だったことから、打高投低の時代に入るとあまり意味をなさなくなっていた。
 荒れた試合であったが、川崎球場との別れを惜しむ2万人超の観客は試合の結果など二の次だった。それぞれの思い出に浸り、「テレビじゃ見れない川崎劇場」のキャッチフレーズ通り、観客の多くがあちらこちらを感慨深く眺めては当時にタイムスリップしていたた。
 名物の「球場ラーメン金子」には長蛇の列。店主は「最後だから納得のいく味にしたくて徹夜で仕込みをした」と話しては涙ぐんだ。広島風お好み焼きはロッテが本拠地にしてから売り出したもの。大洋時代を知るファンは「三塁側にうどんの屋台があったんだけどなあ」と探し回っていた。
 ホエールズ時代の湘南電車カラーのユニホームを着ている集団、洗練されたマリーンズファンの応援とは対照的なトランペットとカネ、太鼓によるオリオンズ時代のレトロな応援…。球場全体が“昭和”に戻っていた。
 有力企業の工場が立ち並び、戦前から社会人野球が盛んだった川崎市が軟式野球専用の富士見球場を整備し、日本鋼管などが資材を提供して「川崎スタヂアム」を作ったのは52年(昭27)のこと。最初に本拠地にしていたのは、結成わずか3年で消滅した高橋ユニオンズだった。54年は高橋、翌年から山口・下関から移ってきた大洋と併用。高橋解散後の57年からは大洋専属のフランチャイズとなった。
 巨人・王貞治一塁手が初めて一本足打法で本塁打を放つなど、語り継がれるプロ野球の名シーンの舞台となった球場だったが70年代に入ると雨漏りはするはネットはつぎはぎだらけと老朽化が顕著になった、おまけに川崎駅から徒歩10分以上かかるなど利便性が良くなかったことから、大洋は川崎市ともめにもめた上で横浜平和球場を解体して完成させた横浜スタジアムに移転した。“空き家”となった川崎は72年の東京スタジアム(東京・南千住)閉場に伴い、仙台宮城球場(現Kスタ宮城)を準本拠地に後楽園、神宮などを転々としていたロッテを誘致。以後14年にわたってオリオンズの地元となった。
 ロッテは80、81年と前期優勝を果たすなどしたが、「古い、臭い、遠い」の球場の観客動員は伸びず、ドーム球場化の構想が浮上しては資金難で立ち消えとなった。脚光を浴びたのは89年の球史に残る「10・19」と呼ばれる近鉄-ロッテ戦ぐらい。球場の収益を支えていたのは野球よりも、大仁田厚が旗揚げしたFMWなどのプロレス興行だった。見切りをつけたオリオンズは92年千葉に移転。マリーンズとして生まれ変わった。
 観客席が解体された川崎球場はグラウンド部分が残り、現在人工芝を新調し、アメリカンフットボールや軟式野球場などとして使用されている。
 

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