日めくりプロ野球 2月

【2月21日】1987年(昭62) 星野監督、デビュー戦は完敗も「これでいい」

[ 2011年2月21日 06:00 ]

 闘将・星野仙一監督が中日監督に就任した87年の串間キャンプは、怒鳴り声と鉄拳の毎日だった。2年連続5位の「覇気のない、プロとしての自覚に欠けるチーム」(星野)を根本から変えるには、口も出し手も出した。星野はミーティングでも、そして担当記者にも監督としての方針を繰り返し言い続けた。「闘争心を前面に出し、仮に負けても激しく玉砕するような野球をやる。熱き心、熱き思いを込めたプレーが理想だ」。

 それを表現する場の第1段階がオープン戦。星野が目指す戦う集団に名を連ねるためにも、レギュラークラスを脅かす闘争心あふれる若手の出現を指揮官は心待ちにしていた。

 86年セ優勝の広島戦が相手の星野にとっての監督デビュー戦は1-6の完敗だった。打線は広島先発ローテーション入りが期待される白武佳久投手ら1軍当落線上の3投手に散発4安打。主力クラスが宇野勝内野手、平野謙外野手ら数名しか出場しなかったとはいえ、前日20日「5点取られたら6点取れ」との星野のゲキも通じず、13安打を放った広島とはあまりにも対照的なお寒い内容だった。

 投手陣も「先発なら2ケタ、抑えでもいける」とNO.1の成長株、6年目の宮下昌己投手が4回4失点。走者を背負い、要所で痛打を食らった。「こりゃ試合終わったら、仙ちゃんのパンチだな」とネット裏では“仙闘開始”のゴングがいつ鳴るかが、話題の的になった。

 しかし、その星野はついに大声も出さなければ、手を挙げることもなく、球場を後にした。「優勝チームのカープに赤子の手をひねられたようなゲームだった」と完敗を認めたが「負けたことは仕方がない。でも、若い選手がその中でも何とかしようと元気を出していたところは認めたい。公式戦の競り合いできっと実を結ぶ。それに比べてベテランはおとなしかったなあ。オレは元気のあるやつを使う」。広島にオープン戦であしかけ4年、13連敗を喫した結果より、若手の活気がレギュラークラスを刺激し、追い抜く可能性を感じ取った価値ある黒星発進だった。

 星野の言葉に、技術、経験で負けるはずのないベテランが焦った。それが星野の狙いだった。調整の場から、競争の場に変わったオープン戦を経てペナントレースに入ると、星野の言動と若手の台頭に刺激され続けたドラゴンズは、春先から首位戦線に顔を出し、5月は14勝4敗3分で首位に躍り出た。ロッテから1対4のトレードで落合博満内野手を獲得、懸案の4番打者を固定すると、本塁打攻勢で“恐竜打線”は活気づいた。

 打線が活発になり、援護射撃が期待できるようになると、若手投手を育てる土壌が作られ新顔が続々と登場した。3年目の米村明投手が6月10日の巨人11回戦(平和台)で7安打を浴びながら8-3でプロ入り初完投勝利を挙げ、7月9日の阪神15回戦(石川県立野球場)では、同じ左腕の仲田幸司投手に投げ勝ち初完封勝利(2-0)。2年目の川畑泰博投手も6月18日の阪神12回戦(ナゴヤ)で初完投勝利(7-1)を収めると、7月5日は大洋12回戦(ナゴヤ)で6-0とこちらも初完封。そして極めつけは8月9日、ルーキー近藤真一投手が巨人18回戦(ナゴヤ)で奪三振13与四死球2でノーヒットノーランを達成した。

 先発で4年連続2ケタ勝利を挙げた郭源治投手を抑えに回し、勝利のパターンが定着したドラゴンズは巨人に8ゲーム差を付けられるも3年ぶりに2位に復活。星野はわずか1年で勝てるチームの土台作りを成し遂げた。

 「オレはドラゴンズ、名古屋と戦い続ける」。2位に安心することなく、星野は87年のシーズン終了後からチームに残る“甘えの構造”を完全払しょくする日までけんか腰で挑むことをあらためて宣言した。

 翌88年、中日は6年ぶりのリーグ制覇を果たした。(08年2月21日掲載分再録 一部改変)

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