日めくりプロ野球 2月

【2月19日】2000年(平12)  広沢、新天地で復活誓う右翼への連続アーチ

[ 2011年2月19日 06:00 ]

 今やらずに、いつやるんだ。そんな思いで毎日バットを振り続けた。成果は結果として表れた。5試合で13打数8安打3本塁打。「紅白戦とはいえ、結果が数字として出ているのは嬉しいね」。16年目のベテラン、阪神・広沢克実内野手は満足そうに充実した汗をぬぐった。

 白組の4番・DHで出場。まずは2回、新外国人のグレッグ・ハンセル投手の136キロの直球を右中間スタンドへ運んだ。防球ネットの上部に当たり、ネットがなければ間違いなく場外という会心の当たりだった。

 続く4回、今度は山崎一玄投手の140キロの真っ直ぐを第1打席と同じように右へ2打席連続アーチ。「完璧や。右打者のライト打ちの手本のようなバッティングや。巨人で苦労した分、成長して帰ってきてくれた」。当初、代打要員という見方を示していた、かつての恩師・野村克也監督は這い上がろうとするベテランを素直に称えた。

 お払い箱になってのタイガース入りだった。ヤクルトの主砲として打点王2回の主力打者が巨人へFA移籍したのは94年オフ。ヤクルトで228本塁打の実績を引っさげ、巨人で中軸を打つことを期待されたが、在籍5年間で100試合以上出場したのは2年間だけ。98年こそ、代打の切り札的存在で打率3割1厘を残したが、99年は右肩痛でわずか16試合計2安打に終わった。

 結果が悪いとすぐに代えられる巨人に対し、広沢自身は「何の恨みもない」としていたが、「長嶋監督とほとんど言葉を交わすことがなかったのが心残り」と、指揮官との意思疎通が十分でなかったと関係者に無念の思いを漏らしていた。

 峠を越したとみられる37歳に、1億1200万円(推定)を超える年俸は高すぎた。巨人は事実上戦力外扱いで移籍先を探したところ、阪神が手を挙げた。巨人から阪神へ選手が移るのは、90年に巨人・石井雅博外野手と阪神・鶴見信彦内野手のトレード以来、実に10年ぶりのことだった。

 年俸は半額以下の5000万円に激減。それでも「野球人生に悔いは残したくない。野村さんのところでもう一度野球がしたかった。今年1年で燃え尽きてもいい」との覚悟でキャンプイン。大豊泰昭、新外国人のトニー・タラスコと一塁の定位置争いに参戦した。

 大豊がけがで出遅れ、タラスコも一発長打の魅力はあったが確実性に欠けたため、広沢の“復活”は近づいたように見えたが、前年骨折した右肩の状態は芳しくなかった。ボールが投げられず、守ることができないのでは、指名打者制のないセ・リーグでは代打でしか仕事場がない。阪神に移籍して3年、スタメン出場の機会もあったが、ひと振りにかける代打家業での出番が次第に増えていった。

 03年、阪神は18年ぶりにリーグ優勝。広沢も八木裕とともに右の代打として優勝に貢献したが、すでに41歳。引退を覚悟してのシーズンだった。そんな広沢を日本シリーズ第1戦で星野仙一監督は「4番・一塁」で起用した。

 「毎日が引退試合や」という星野は広沢のプロ19年のキャリアとまだ衰えていない長打力、対戦するダイエーの和田猛、杉内俊哉の両左腕攻略を期待して起用した。しかし1、2戦で6打席5三振。チームが連敗したことで星野はさすがに広沢をスタメンから外さざるを得なかった。

 このままユニホームを脱ぐのか。寂しさがこみ上げてくる中で、最後の打席が回ってきた。10月27日、福岡ドームでのシリーズ第7戦の9回表二死、広沢は代打で起用された。

 スコアは1-6。阪神の敗色は濃厚だった。最後の打者になるのだけは避けたかった。カウント1-1。完投目前の和田の3球目は低めのスライダー。広沢は最後のフルスイングをした。打球は広沢特有の美しい放物線を描き、左翼席で弾んだ。現役20年のフィナーレは日本シリーズで最年長記録となる41歳6カ月での劇的なアーチ。同時に日本シリーズ通算600号となる記念の一発でもあった。

 「おれはなんて幸せなんだ。最後がホームランなんて。野球の神様っているんだなあ」。三塁ベースを回った広沢はうつむいいていた、顔を上げるとこぼれる涙が止まりそうになかったからだ。選手としてもう何も思い残すことはなかった。(08年2月19日掲載分再録、一部改変)

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