日めくりプロ野球 2月

【2月11日】1997年(平9) 仮病で早退、ホージーに早くもダメ出しが…

[ 2011年2月11日 06:00 ]

 強肩強打のワル。これがヤクルトの新外国人選手、デュウェイン・ホージー外野手のキャッチフレーズだった。「外国人はフタを開けてみるまで分からん」という野村克也監督。その名伯楽の言葉通りでもあり、言葉通りではなかったというのが、ホージーの不思議な2年間の足跡であった。

 大リーグでは通算40安打4本塁打。決して花開いたとはいえないスイッチヒッターだが、「これまで日本の各球団がリストアップしていたアベレージヒッター」という“前歴”に、連覇を逃したスワローズは大いに期待をかけた。

 子供の頃から喧嘩っ早く、大リーグでも出場52試合にもかかわらず、3回退場。ヤクルトナインはどんな武闘派が来るのか興味津々だったが、不良というよりは、めちゃめちゃ陽気な30歳だった。

 飯田哲也外野手は「ビリー」、池山隆寛内野手には「JJ」、稲葉篤紀外野手は「ジェームス」…。早くからチーム内に溶け込もうと、選手に独自の名前を付けて接近。その由来は全く分からないが、チーム内ではこれをオウム真理教(アーレフに改称)が教団内で使っていた「ホーリーネーム」をもじって、「ホージーネーム」と命名した。自らも「太郎」と名乗り、チームメイトはそんなホージーを面白がり、日本人選手はあまり良くない日本語や方言をわざと教えて、この新助っ人をかまった。

 しかし、ユマキャンプに合流したホージーはすぐに退団の危機に直面した。左翼の守備は、内野への返球が山なりの力のないボールばかり。足は速かったが、打球の判断が悪く落下点に入るのが遅い。「強肩って言ったの誰や。届かんやないか」。いつもは皮肉半分の野村監督が本気で怒りをあらわにした。

 フリー打撃でも振り遅れのファウルが目立ち前に飛ばない。準備運動をせずにいきなり打撃練習をしたり、練習中も大好きなラップのリズムを思い出しては、歌い踊っている奇行を繰り返し、おまけに左ひざに古傷があることも発覚。キャンプ中の解雇を球団は真剣に検討し始めた。

 そんな矢先の11日、ホージーは「熱があるから早退させてほしい」と訴えた。首脳陣は「疲れもあるだろうし、リフレッシュの意味も込めて」と早退を許可した。しかし、実際には発熱していなかったことが後に判明。宿舎から外出し、夜遊びをしていたというからあきれたものだった。「肩は弱いし、打撃もお寒い。5000万円で代走要員の外国人取ってきてしまったわ」と野村監督がボヤくのも無理はなかった。

 そんな酷評だらけのホージーに対し「日本の投手に慣れれば、必ず打つ」と言い続けたのは、金森栄治打撃コーチ補佐だった。「バットスイングがコンパクト。軸もブレない。打つポイントが近いので、球を引きつけて打てる。ということは、外角の変化球にも対応できる。選球眼も悪くない」と絶賛。他のコーチ陣がさじを投げる中で、シーズンでの活躍を予感していた。

 解雇の可能性が本人の耳に届くと、ホージー自身も取り組み方が変わっていった。貧しさから抜け出すために野球選手になった男は、家族のためにもクビになるわけにはいかなかった。アッパー気味のスイングの矯正を若松勉打撃コーチに指令されるとこれを数日で直し、オープン戦に入ればベンチにノートを持参。対戦した投手の癖や球種などを克明にメモし、「タイミングの取り方は投手によって違う。30種類はある」とまで言った。ミーティングにも積極的に参加。若松コーチや金森コーチはよく質問攻めにあった。記憶力も抜群。凡退した時の内容を鮮明に覚えており、それを次の対戦機会に生かした。

 代走要員と野村監督に失格の烙印を押されたが、ペナントレースに入るとそのバットが火をふいた。7月7日時点で打率3割1分7厘(リーグ7位)、52打点(5位)、18本塁打(3位)と予想をはるかに上回る大活躍。6月は満塁弾を含む8本塁打25打点で月間MVPを獲得し、巨人・長嶋茂雄監督の推薦でオールスターにも出場。7月24日の地元神宮球場での第2戦は2安打を放ち、優秀選手に選ばれた。

 気がつけば、ブリクラシールでヘルメットは埋まり、「アウ~ン」という奇声を発してファンの人気を独り占め。後半横浜の猛追にあったものの、ホージーのバットでチームは2年ぶりにセ・リーグ制覇し、そのまま西武を破り日本一。気がつけば137試合全試合に出場。38本塁打を放ち、ホームランキングに。年俸は6600万円からほぼ倍増の1億3000万円となった。

 翌98年、今度はセ・リーグの投手はホージーを徹底的にマークした。なかなかストライクゾーンに球を入れてこないことに苛立ち、選球眼が良かった男がボール球に手を出すようになると打撃は簡単に崩れた。本塁打数は13本と激減、打率も2割8分9厘から2割3分3厘に、打点は100から半分以下の42に。人気者ではあったが、ここで球団も見切った。2年間ではあったが、スワローズ史上忘れられない助っ人であった。(08年2月11日掲載分再録)

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