日めくりプロ野球 2月

【2月7日】1988年(昭63) ロッテの“狂犬”、棲み家は金100万円ナリ

[ 2011年2月7日 06:00 ]

 在籍11年、通算打率は外国人選手の中で最高(4000打数以上)の3割2分を残したレロン・リーを切り、ロッテが年俸1億3500万円で獲得したのは、メジャーで通算2008安打、163本塁打、4回首位打者に輝いたビル・マドロック内野手だった。

 メジャーでの退場回数は10回以上。パイレーツ時代の80年には審判の顔をグラブではたき、出場停止15日と日本円にして罰金50万円を科せられたこともあった。名前の発音に似ている「マッドドッグ」とひっかけられて、チームメイトは“狂犬”と呼んだ。

 大リーグのオールスターでもMVP(75年)に選ばれたスーパースターは、この日ロッテの鹿児島キャンプに合流。持参した23本のバットを指差し「オリオンズは長らく優勝から遠ざかっていると聞いている。これでボスを優勝監督にするために貢献したい」と、初日から有藤通世監督を喜ばせた。

 “狂犬”の待遇は“棲み家”から違った。本拠地川崎球場から15キロ離れた、東京・五反田のマンションは165平方メートルの5LDK。ロッテ不動産が持つ数ある物件の中でも最高レベルのものだった。ちなみに家賃は月100万円。東京都大田区山王の高級マンションで暮らしていたリーは、4LDKで家賃は月50万円。球団がマドロックに大きな期待を寄せていたかが分かる差であった。

 「球団に住まいのことで要求は何もしていない。夏に家族が来日した時に寝られる場所と時計が置ける部屋さえあればそれでいいさ。野球選手が家のことをいちいち気にしていたら、プレーに集中できやしない。郷に入れば郷に従えだよ」と話したマドロック。時計を持ち出したのは、趣味がアンティーク時計の収集だからで、中には300万円で購入した豪華客船「クイーン・エリザベス」で使われていた置時計もあった。

 この助っ人の登場で“狭い、暗い”で有名だった川崎球場のロッカールームも改善されたロッテは、86年4位、87年5位とジリ貧の状態から脱するべく、マドロックを4番に添えてシーズンに臨んだ。

 しかし、マドロックのバットがチームを「勝利に導く」ことは少なかった。オープン戦1割台の打率に有藤監督は「あいつは4月8日(開幕戦)から仕事をするために来ているんだから」と笑い、5月に入っても打率2割5分前後の時は「夏男と聞いている。暑くなればガンガン行くよ」とかばった。

 日本では“狂犬”ぶりは見せなかったが、好きな夏場になっても調子が上がらなければイライラも募った。7月13日、東京ドームでの日本ハム17回戦の2回、佐藤誠一投手の外角いっぱいのストレートをストライクと判定され、見送り三振となると新屋晃球審に向かって打席の土を蹴り、さらにヘルメットを投げつけて退場処分になった。オールスター明けの後半戦からは6番に降格。それとともに前半3位をキープしていたロッテはズルズルと後退、最下位となった。

 37歳という年齢はマドロックの動体視力を衰えさせ、速い球に振り遅れるようになっていた。加えて、縦の変化球を強引に引っ張ろうとして凡退することも多かった。当初、パ・リーグの投手もメジャーの強打者との勝負を避けて四球を多く出したが、欠点が分かると速球でファウルを打たせ、スライダーなどで打ち取るパターンが日常化。川崎球場に流れるロッテ応援団によるマドロックの応援歌「サザエさん」の歌がむなしく響いた。

 マドロックは複数年契約を申し出た球団に対し、活躍した時の大幅年俸アップを目論んでこれを拒否。しかし、成績が振るわないと今度はマドロックから複数年を持ちかけたが、球団は態度を180度変えて応じなかった。勝利に貢献できず、123試合で19本塁打、61打点、2割6分3厘で退団。狂犬の次にロッテが助っ人として獲得したのは“ランボー”こと、マイク・ディアスだった。

 その後、マドロックはマイナーリーグのコーチやデトロイト・タイガースの打撃コーチを歴任。05年には台湾に渡り、La Newベアーズで打撃コーチも務めた。 (08年2月7日掲載分再録)

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