日めくりプロ野球 2月

【2月26日】1936年(昭11) 名人・苅田久徳「好きなことをやるために」

[ 2010年2月25日 06:00 ]

戦後東急で監督も務めた苅田。プロ野球最初の退場1号という“記録”ももっている。01年、91歳で亡くなった
Photo By 共同

 身長1メートル68の小柄な男が、東海道本線小田原駅に1人で降り立ったのはもう昼時になろうかという時間だった。前日から降り続いた雪がようやく小降りになったものの、積雪は30センチを超えていた。「エラい日に来たものだ」と男はため息をついた。が、東京・新橋を発って、目的地まで無事到着したのだから実は幸運だったのだ。

 東京ではこの日、陸軍青年将校らが岡田啓介首相や高橋是清蔵相らを襲撃。クーデターを狙った世に言う「2・26事件」がぼっ発した。東京に戒厳令が敷かれ、外出はおろか、鉄道が止められてしまい、午後にはどこへも行けなくなってしまった。自動車など、まだほとんど一般には出回っていない時代。「あの日、小田原に到着していなかったら、熱い思いは徐々に消えて、私の野球人生はおそらく別なものになっていただろう」と男は後に回想している。旅立ちが早かったことで、男の人生の新しい歯車が回り始めた。
 男の名前は苅田久徳。東京六大学の法政大で遊撃手としてならし、ベーブ・ルース以下全米選抜チームが34年に来日した際に創設された大日本東京野球倶楽部、後の巨人の母体になるチームで、早大のスタープレーヤーだった三原脩内野手に続いて2番目の契約を交わしたスター選手は「苅田の前に苅田なく、苅田の後に苅田なし」と呼ばれた、守備の“名人”だった。
 苅田が小田原まで来たのは、入団が決まった東京セネタースのキャンプに参加するためだった。巨人を退団し、職業野球で4番目に誕生した球団は、まだアマチュア同然の選手ばかり。全米選抜チームを相手にし、その後は東京ジャイアンツの一員として渡米し各地で116試合もの“武者修行”をしてきた苅田の入団は、チームにとって戦力的にも精神的にも大きな影響を与える一大事だった。
 「好きなようにやらせてほしい」。苅田のセネタース入団の条件はそれだけだった。苅田の言う「好きなように」はただ一点。遊撃手から二塁手へのコンバートだった。選手同士、あるいはフロントとの人間関係の煩わしさが嫌で巨人を飛び出した苅田は、プレーに専念したくてセネタースの誘いに乗った。同時に苅田は米国との試合で内野の要がショートではなく、日本では当時軽視されがちの二塁手であることを実感。日本の野球界で守備の革命を起こすことを目標に定めた。
 雪も解け切らない小田原・小峰球場(現小田原競輪場)で、早速練習に入った苅田は遊撃手に法政の後輩の中村信一内野手を入れて連日ノックを受けた。特に苅田がこだわったのは併殺。ショートゴロからの6-4-3のダブルプレーをいかに美しく見せるかにこだわった。遊撃手からトスされたボールを苅田は体を捻りながら、ステップせずにスナップスローで一塁に送球してみせる、当時としては神業的なプレーを見せた。
 一死満塁のケースでも投ゴロでは、本塁に投げて1-2-3の併殺を取るのではなく、苅田は二塁に送球することを要求。1-4-3のダブルプレーを完成させ、ファンを喜ばせた。一歩間違えば、併殺崩れで1点を取られるわけだが、苅田にスローイングの速さと正確さに自信があったからこそ、なし得たプレーだった。
 併殺を取ること自体、当時の野球の水準では珍しかったが、それを華麗に見せたセネタース。名人芸・苅田が中心となったセネタース内野陣のプレー見たさに、西武線沿線の上井草に建てられた球場に足を運ぶツウのファンも多かった。
 38年春のリーグ戦で苅田はMVPに選ばれたが、打率2割9分9厘で打撃成績9位、5本塁打15打点と飛び抜けた成績ではなく、チームも5位だった。にもかかわらず、選出されたのは、ダブルプレーの妙技をファンに見せ、当時大学野球より下に見られていた職業野球を大いに盛り上げたという側面が強い。プロ野球が“見世物”という要素が強かった時代の話である。

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