日めくりプロ野球 2月

【2月25日】1993年(平5) MAX118キロ 3人目の東大出身選手 小林至初登板

[ 2010年2月1日 06:00 ]

千葉マリンスタジアムで投げる小林。東大卒のプロ野球選手はこれまで5人いるが、1軍経験なしなのは小林だけ。
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 記念すべき第1球の球速は118キロだった。「スライダー?いや、スローボールかな」。ロッテの2軍紅白戦。紅組の1番・渡辺英昭内野手は球種の判断がつかず首をひねった。マウンド上の左腕が投げる2球目も同じような軌道を描いたが、変化はしていなかった。「これが目いっぱいなのか?」。プロではあまり見かけない“遅球”の直球に、正直やや戸惑った。

 白組の先発は92年のドラフト8位左腕、小林至投手。東京大学出身3人目のプロ野球選手だった。この日の紅白戦が記念すべき初の試合での登板。紅白戦といえども「子供の頃から夢だった、プロのまっさらなマウンドに立てたのは最高」と意気揚々とマウンドに登った。
 渡辺に投げた初球は全力投球のストレート、2球目も同じだった。が、プロ野球の水準からすれば2軍の投手でも真っ直ぐなら135キロ以上は間違いなく出す。渡辺が変化球やスローボールに見えたのも仕方がなかった。
 遅いだけでなく、制球も定まらなかった。渡辺を四球で歩かせると、続く小野寺在二郎外野手にはストライクを取りにいったカーブを右前に運ばれた。3番・大村巌外野手にはカウント2-0と追い込みながら、中前に弾き返され、わずか8球で1点を失った。さらに安打を許し、初回は3安打2失点。写真週刊誌まで取材に来た初登板は現実を思い知らされる厳しいものとなった。
 2回は得意のカーブを多投し、鹿野浩司内野手から3球で空振り三振奪うなど、頭脳的投球をみせ3者凡退に。予定のイニングを投げて交代した。「これが今の実力。まだまだ発展途上人ですから」と小林。それでも、2軍の紅白戦にもかかわらず、東京から球団首脳も駆けつけ、1軍の八木沢荘六監督も視察した中での投球は、1年間練習生としてイースタンリーグの試合にも投げられず、ひたすら練習に明け暮れた背番号63にとってはまさに晴れ舞台だった。
 「カーブにもっと磨きをかけてコントロールと切れをつけることが課題」とした小林。これに対してネット裏からその投球内容をつぶさに見た八木沢監督は「カーブはいいが、真っ直ぐが走らなきゃ使えない。コーナーワークはある程度ストレートが走ってこそ生きてくる」と、最速118キロのルーキーと考え方が真っ向対立する、手厳しい評価を下した。
 話題先行で入団させたという側面が強い小林のプロ生活。本人は「努力や知恵でなんとか追いつけるのではないか」と考え、筋トレを重点的にやるなど、練習と体力づくりに明け暮れた。日に日に、カーブの精度は増し、体力もつき、ストレートも常時120キロを越すようにはなった。しかし、東大でですら0勝12敗と1つも勝てなかった左腕は、プロの凄さに自分の伸びている力が追いついていかない焦りを感じていた。
 「プロは天才の集まり。その上で努力をする。僕は完全に実力不足だった。努力だけではどうにもならない世界があることを知った」。赤点だらけの高校時代から一念発起して東大に合格するより、プロ野球の打者を牛耳ることの方が何倍も大変かということに気付いたのは2年目のオフ。高知での2軍戦、黒潮リーグでわずか3試合3イニングを投げただけの小林はチームメイトより1日早く帰京し、引退を決意。2年間1軍での公式戦登板なし、オープン戦で1勝したが、2軍でも26試合0勝2敗に終わり、東大左腕の挑戦は終わった。
 米国留学、米ゴルフ専門チャンネルに入るも人種差別問題を公表し解雇、参院選出馬、大学教授と1人で何人分もの人生を生きたというほど、波乱万丈な生き方をしてきたが、10年現在、福岡ソフトバンクホークスのマーケティング部門の取締役として手腕を振るっている。著書に共鳴したソフトバンクの総帥・孫正義氏が引っ張ってきたものだった。人間、がむしゃらに何かを仕掛けていけば、結構誰かが見ていてくれるものである。

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