日めくりプロ野球 2月

【2月27日】1980年(昭55) 長嶋監督解任のきっかけはテスト生助っ人? 紹介者は巨人OB

[ 2009年2月1日 06:00 ]

精悍なマスクで女性にも人気があったジェームス。2年目は松原誠が抜けた一塁に予定されていたが、交渉がこじれて在籍1年で終わってしまった
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 米アリゾナ州メサでキャンプを張った大洋の“土産”は新外国人野手だった。キャンプにテスト生として参加していた、元サンフランシスコ・ジャイアンツのスキップ・ジェームス外野手の獲得を発表、背番号4が決まった。この金髪の寡黙な助っ人が、3年ぶりのV奪回を目指す長嶋巨人の出ばなをくじき、半年後の解任につながるとは、このとき誰も予想できなかった。

 前年79年に15年ぶりの2位でシーズンを終えた大洋の補強課題は「40本塁打を打てる大砲の獲得」。28本塁打を放ったトーマス・マーチン外野手を切って新外国人を探したが、これが難航。思うようにいかない中でメサキャンプ中に、予想もしなかったところから売込みがあった。
 かつて巨人で通算28勝を挙げ、78年に渡米し大リーグ挑戦した小川邦和投手が79年にミルウォーキー・ブルワーズ傘下の3Aで同僚だったジェームスを大洋に紹介。「選球眼のいい中距離ヒッター。本塁打も日本なら30本はいける。アベレージは残すはず」というのが小川の評価だった。
 「40本塁打を打てる大砲」がどうしても欲しかった大洋・土井淳監督は当初、あまり興味を示さなかったが、待てど暮らせどそのレベルの選手の獲得はままならなかった。そんな時、目の前で汗を流すジェームスを見ていて「40本は厳しいが、30本、3割前後ならいけるだろう」と判断。本塁打が少ない分は打点で補ってもらうという狙いで、消極的選択ではあったがテスト合格を言い渡した。
 野球よりも「カンザス大時代に、アメリカンフットボールのオレンジ・ボウルに出場したことのほうが誇り」という珍しいタイプのジェームス。経営学と体育の教員資格を持つインテリでオフには大学の臨時講師も務めたが、大リーグでは通算8安打で本塁打0。球歴で誇れるとすれば、プロ2年目に1Aで本塁打と打点の二冠王を獲得した程度で、小川とチームメイトだった79年も2割7分5厘、9本塁打だった。
 それほど期待されていなかった新助っ人。ファンの間でも開幕前の知名度は低かったが、開幕戦での一撃で一気に名前が知れ渡った。4月5日、横浜スタジアムでの巨人1回戦。1点を追う大洋は9回裏、完投勝利目前の江川卓投手からジェームスがセンターバックスクリーン右に飛び込む起死回生の同点1号本塁打を放った。これで押せ押せとなった大洋は福嶋久晃捕手の右前打でサヨナラ勝ち。翌日の2回戦でも6回にジェームスが「生涯で初めて」という2試合連続となる2号本塁打で勝ち越し点を奪い連勝。ノーマークの伏兵新外国人の2発で沈んだ巨人は1度も首位争いに絡むことができず、かろうじて3位に入るのが精いっぱい。10月22日、長嶋茂雄監督は「男としてのけじめをつける」と言い残し、事実上解任された。
 ジェームスの1年目は2割6分9厘、21本塁打、57打点。数字的には少々物足りなかったが、大洋は引き続き大物助っ人獲得ができなかった場合の“保険”として契約を持ちかけたが、物静かで「日本で5年野球ができればいい」と殊勝なことを言っていた選手がオフには豹変。代理人交渉しかしないとした上で、年俸1500万円の倍増を要求してきた。これには球団も“キレた”。担当者が渡米しジェームスに面会を求めたが、これにも応じず代理人が出てきた失礼な態度に憤慨、交渉打ち切り解雇を通達した。
 その後、ジェームスは非を認めわびてきたが、大洋側の態度は変わらなかった。Gキラーの左打者は“自爆”で5年どころか1年で日本を去らなければならなくなった。
 

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