日めくりプロ野球 2月

【2月20日】1978年(昭53) 鹿児島に“落雷”カネやんに怒鳴られ、ノムさん「ハイッ!」

[ 2009年2月1日 06:00 ]

ロッテ時代の野村。金田監督は3試合に1試合のペースで休ませて起用する方針を示したが、野村がマスクをかぶったのは34試合にとどまった
Photo By スポニチ

 今まで気を遣ってきたが、緩慢な動きに怒鳴らずにはいられなかった。「なんじゃい!そんな球止められんのか!止めてもらわにゃ困るんじゃい!なんや、モタモタ追うな!」拡声器のハンドマイクを握ると、ロッテ・金田正一監督は球場中が震え上がるほどの大声で怒鳴った。
 「ハイッ!」と、怒鳴られた選手も驚くほど大きな声で反省の意を表した。金田監督にどやされたのは“新人”捕手だった。いや、正確に言えば、ロッテでは“新人”でも、プロ野球選手としては25年のキャリアを持つ、42歳の“生涯一捕手”・野村克也だった。

 鹿児島・鴨池球場での紅白戦。3回裏、二死二、三塁で紅組の松原由昌投手の投げたカーブはワンバウンドし、野村のミットをかすめて、バックネットへ転々。三塁走者は悠々生還。ワンテンポ立ち遅れた野村の動きを見て、二塁走者も本塁をうかがう構えをした。
 記録は暴投だったが、金田監督は野村のここ数年の悪いクセが出たことで声を荒げた。南海時代から「ワンバウンドの球を体で止めに行かない」というのが、ここ数年の専らの評判だった。野村ともあろう名選手が…という気持ちが高ぶった金田監督は、2歳年下の弟分に思わず雷を落としたのであった。
 野村にも言い分はあった。元気な若手でさえ、下半身がパンパンになっているキャンプ後半。野村が悪球を捕球できなかったのも、金田式の走れ、走れトレーニングによって足腰の疲労が限界に達していたからにほかならなかった。
 それでも言い訳をせず、大きな声で返事をすることで耐えた。“公私混同”問題の末に南海での8年間の捕手兼任監督の座を追われ、途方に暮れていた時に声をかけてくれたのが金田監督。好きな野球をまたやれるチャンスをくれたその時から「一兵卒に戻って金田監督、ロッテのやり方に従う」と心に決めた。南海時代、後の「ID野球」の源となった「シンキング・ベースボール(考える野球)」から「走れ、走れの根性野球」に変わっても、球場でのタバコ厳禁、朝の散歩から他の選手と同じ練習メニューをこなすことを課せられても文句は言わなかった。
 「リー、有藤の後の5番を打ってもらう。DH(指名打者)やないで。捕手で試合に出てもらうんや」。入団当初、金田監督は野村起用プランを大々的に宣伝した。が、74年の日本一以来、3年優勝から遠ざかっている金田の本当の狙いは、上位を行く南海、阪急打倒のため、野村の豊富な知識と経験、長年にわたって蓄積したデータを丸ごと手に入れることだった。
 金田はコーチ兼任を渋る野村を説得し、間を取って、アドバイザーの待遇を与え、技術指導に関してはコーチと同等の権限を許した。通算700号本塁打を目指していた野村もロッテで現役続行が可能になった見返りとして、年俸が約半分の1800万円になりながらも「データはすべて提供する」と約束した。
 3年連続日本一の阪急も金田・野村の合体を恐れたが、2人はやはり水と油だった。開幕直後こそ、金田は野村をスタメンで使い続けたが、4月を終わって1割5分2厘、0本塁打、2打点で見切りをつけると、手のひらを返したように遠ざけた。口に出さずとも態度に“金田批判”が
出ていたのだろう。そのうち「ベンチに座ってられる雰囲気もなかった」という野村はチーム内で孤立し、たまに出場してもいい結果は望めなかった。結局、1956年(昭31)にレギュラーを獲得して以来、最低の64試合出場にとどまり2割2分6厘、3本塁打、12打点でシーズンを終了。ほとんど戦力にならなかった。ロッテも野村の抜けた南海には勝ち越したものの、宿敵阪急には6勝17敗3分けと大敗し4位に。金田監督は辞任、野村も戦力外となった。
 これでノムさんも引退、という話が球界を駆け巡り、本人もその気になりつつあったが、2度目の救いの手が伸びた。新球団西武の根本陸夫監督がロートルとまで言われた43歳の捕手を獲得した。野村の選手寿命はあと2年伸び、いよいよクライマックスを迎えることになった。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る