日めくりプロ野球 2月

【2月15日】1982年(昭57) 卒業するまでは高校生 ロッテドラ2 キャンプ参加NG

[ 2009年2月1日 06:00 ]

 新人選手にとって毎日が緊張と不安の春季キャンプ。1日も早く打ち上げの日を迎えたいというのが、多くの選手の本音だろうが、その気持ちどころか、キャンプインすら認められないルーキー投手が日本海に面した鳥取にいた。
 81年のロッテドラフト2位、鳥取西高・田子譲治投手は「高校を卒業するまでは学生。プロでの練習は認められない」という鳥取県教育委員会、同県高野連の方針で鹿児島キャンプに参加できず、早くても3月11日の卒業式以降でなければチームに合流することができないことがこの日決まった。

 当初、田子は卒業試験が終了した2月10日の翌日から鹿児島入りする計画でいたが、県教委などが“待った”をかけ、関係者が協議。結果的にさらに1カ月も“プロ入り”が遅れることになった。学生の本分は勉学とする県教委は、就職する学生の長期の事前実習や研修も認めておらず、プロ野球に就職するからといって、田子だけを特別扱いするわけにはいかないというのがその理由だった。
 いつも前向きで口が達者なことから“9割9分10厘”というあだ名が付いた田子だが、この決定にはさすがにへこんだ。81年夏の甲子園での活躍とさわやかな笑顔で一躍人気者になり、前日のバレンタインデーには全国から約50個のチョコレートが届いたものの、それには見向きもせず自室に閉じこもるばかり。かろうじて、ロッテの河原田トレーナーに作成してもらった、2時間の自主トレメニューを母校のグラウンドでこなすのが精一杯だった。「プロでメシを食っていくのがどれだけ大変か、理解してほしかった。今からでもキャンプに参加させてあげたい。他の新人選手はもうプロの世界に入って力をつけているわけですから。球団にも大変迷惑をかけてしまうし…」と父親が息子の気持ちを代弁した。
 甲子園で1試合16奪三振、1安打投球を見せた大器の最初のつまづきは、その後のキャリアに大きく影響した。甲子園優勝投手の近鉄・金村義明(兵庫・報徳学園)よりも評価が高く、巨人1位指名の槙原寛巳投手(愛知・大府高)と双璧とされ、大洋を除く11球団からあいさつを受けた田子だが、キャンプに参加できなかった結果を急ぎ、やみくもに練習したことでほどなく右肩を痛めた。
 入団から3年間で1軍登板はなし。4年目、ようやく1軍デビューを果たしたが、わずか3分の2でKO。鳴かず飛ばずのまま迎えた5年目の86年9月19日、後楽園での日本ハム20回戦で先発し、ようやく初勝利。この年2勝をマークした。
 しかし、これが最初で最後の実質的なプロ野球生活だった。2勝した翌年から今度はひじを痛め、2度と1軍に上がれぬまま90年に戦力外通告を受け、
91年から巨人の打撃投手に。後輩にあたる清原和博内野手の特打の時はよく“登板”し、二岡智宏内野手の打球が直撃し、顔面を骨折したこともあったが、毎日ひたすら打者に気持ちよく打たれるためだけに投げ続けた。回転のいい良質な球筋は、重量打線を縁の下から支え功労者であった。
 余談だが、ロッテを解雇され、巨人に打撃投手として採用された時、年俸が25%以上アップした。90年代の両チームの軍資金の差を示すエピソードである。

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