日めくりプロ野球 2月

【2月2日】1968年(昭43) サイズは違うけど…アルトマン、“観兵式”でサク越え連発

[ 2009年2月1日 06:00 ]

72年、大沢啓二監督の下では打撃コーチ兼任の肩書きが付いたアルトマン。その熱心で的確な指導は2年後のロッテ日本一に結びついた
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 5年目となった東京(現ロッテ)オリオンズのハワイ・マウイキャンプ初日。1メートル93の大男、新外国人のジョージ・アルトマン内野手の“観兵式”が始まろうとしていた。“観兵式”とは昔の軍隊用語で、天皇陛下が軍を視察することを意味した言葉。転じて野球界では新入団選手の最初のフリー打撃などでその実力を測ることを指した。
 別メニューの野手もしばし手を休め、投手陣がわさわざブルペンからメーングラウンドに集まってきた。チームメイトの視線も気にはなったが、しきりにバットの先端を見つめながら、なんとなくしっくりこないといった表情のアルトマン。それでも打撃投手が投げた初球を軽くたたくと、打球は右中間のフェンスを直撃した。

 「オーッ」。“ギャラリー”からどよめきが上がった。2球目、今度は一、二塁間を真っ二つ。5球目、ついに打球は右翼フェンスを越えた。
 次々に外野の間を抜け、フェンスオーバーをする打球に若手は見とれて言葉も出ない。「こりゃ、たまらんわ。味方で良かった」と声を上げたのは、ベテランの小山正明投手。球界の名投手のひと言でアルトマンの立場は決まった。
 41球打ってサク越え10本。通算101本塁打、オールスター戦2度出場のバリバリの大リーガーへ、オリオンズナインは早くも尊敬の眼差しが注いだ。
 しかし、本人は首をひねるばかりだった。「ちょっと疲れた」と言ってバットを置いたアルトマン。実は、自前のバットがサンフランシスコからハワイに届いておらず、井石礼司外野手のバットを借りて打席に立った。
 アルトマンのバットは約93センチという“物干し竿”といわれた往年の阪神のスラッガー、藤村富美男内野手もビックリの長さだったが、井石のそれは84センチ程度の日本人選手としては標準的なもの。バットを振った感触、ミートポイントが違い、“黒い巨砲”は調整するのに四苦八苦。打球は飛んでいるが、打撃投手の素直なボールのだから対応できただけのことで、自分のベストのポイントで打てたボールはほとんどなかった。「疲れた」発言は、体力的にではなく、完全に気疲れだった。
 愛用のバットが届くと“足長おじさん”はさらに本領発揮した。68年のシーズン、100打点を挙げタイトルホルダーに。打率3割2分は2位。本塁打も34本放った。選球眼が良い上に、対戦した投手のことは細大漏らさずノートにメモし、次の打席に生かした。自分から進んで教えることはなかったが、聞かれれば的確なアドバイスをし、若い選手には打席での考え方も伝授した。
 大リーグでならしたダリル・スペンサー内野手がエキサイティングなプレーで阪急に“勝てる野球”を身をもって教えたのと同じく、タイプは違うがアルトマンは日ごろの姿勢でオリオンズナインに影響を与え、チームは70、74年と優勝。バット以外の貢献度も飛び抜けていた。
 オリオンズ時代は東京・渋谷に住み、地下鉄を乗り継いで南千住にあった東京スタジアムに“通勤”。読書をしながら約40分、ファンがサインを求めれば気軽に応じた。愛称の“足長おじさん”は施設の子どもが野球を楽しめるようにと東京スタジアムのシーズンシートを自腹で購入して招待しただけでなく、分け隔てなくファンに見せる心優しい気遣いからつけられたニックネームだった。
 時折、気分転換に当時流行の「ゴーゴーバー」に行って踊ることはあっても、敬虔なクリスチャンであるアルトマンは酒もタバコもやらず、公の場では理解していてもめったに日本語を使わなかった。「日本語が分かるとチームメイトが知れば、僕の前で何もしゃべらなくなるからね」と、アルトマン流の処世術がそこにはあった。
 ロッテが日本一になった74年8月、試合中に卒倒し、検査の結果大腸がんを患っていることが判明。シーズン途中で帰国し、日本シリーズには出場できなかった。ロッテは前半戦、打率3割5分1厘チームをけん引したアルトマンに功労金なども用意せず「大リーグならグランドキーパーでももらえるトロフィーだけ」(アルトマン)で解雇。金田正一監督はアルトマンの体調面を理由に挙げたが、監督就任時から不要論を唱えていただけに、病気を潮に契約を打ち切った。
 75年は阪神でプレーし、来日外国人初の通算200本塁打を記録したが、42歳の年齢からくる視力の衰えは隠せず2割7分4厘、12本塁打、57打点に終わり野球界から身を引いた。引退後はシカゴで穀物を扱う相場師としてひと儲け。がんも再発せず、穏やかな毎日を静かに過ごしている。

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