日めくりプロ野球 2月

【2月28日】1995年(平7) えっ、人数足りない?日本ハム、紅白戦で9人揃わず

[ 2008年2月16日 06:00 ]

力もなければ、覇気もなかったファイターズを優勝争いできるまで育てた上田。監督しての通算1322勝は歴代7位
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 日本ハムの名護キャンプは3月1日が打ち上げ。その前日の2月28日、上田利治監督は「サインプレーの徹底など、最後の確認をしたい」と紅白戦を予定していた。
 ところが、試合当日になってみると“故障者”が続出。右太ももを痛め、別メニュー調整の広瀬哲朗内野手の欠場は仕方ないにしても、この日になって突然ベテランの田村藤夫捕手、白井一幸内野手らをはじめ、6人が紅白欠場を首脳陣に申し出た。
 投手陣はエース、西崎幸広やベテラン金石昭人らが最後の仕上げ登板する状態だったが、野手が足りない。攻撃時は紅白とも8人ずつ。守備はさすがに草野球のように8対8でやるわけにはいかず、白組の左翼にはなんと伊藤打撃投手が入った。
 紅組にいたってはもっとすごい。一塁には11年目の丑山努捕手が入るのはまだいい方で、左翼を守っていた中島輝士外野手が試合中に左足のふくらはぎに痛みを訴えてベンチへ下がると、代わってレフトに入ったのは、山森雅文外野守備コーチ。81年9月16日、西宮球場のロッテ戦で完全に本塁打だった打球を、ラッキーゾーンの金網に足をかけてキャッチした往年の守りのスペシャリストが紅白戦とはいえ、現役選手が出るべきゲームに出場した。
 「けがというなら仕方がない。だけど最後ぐらいきちっと終わりたかった」と上田監督。そこまでが“公式発言”。その後、新指揮官は13年も優勝から遠ざかっている勝てない体質を鋭く指摘した。「すぐにあっちが痛い、こっちが痛いって試合を休む。しかもチームの顔であるベテランがだ。この時期に無理をしたくないのは分かる。だが、いつ紅白戦があって、いつオープン戦があるかは事前に分かっているはず。要するにプロとしての自覚に欠けていると言う選手が多いということや」。オープン戦でも休ませようものなら「何でオレを使わんのや」と噛み付いてきた、猛者集団の阪急を率いてきた“闘将”は、おとなしく闘争心の薄い日本ハムナインに歯がゆさを感じていた。
 前年最下位の日本ハムはチームの顔でもあった、大沢啓二監督が辞任。その大沢がフロントにいた時から数年来口説いてきた、阪急で3年連続日本一の実績がある通算1012勝(当時)監督の上田を新監督に迎えた。
 「若手を鍛え、チーム力の底上げ」をテーマに掲げた名護キャンプ。これまで選手同士の競争とは縁遠かった日本ハムは「今年初めてプロの野球をやるような若い選手」(上田)とベテランを競わせ、それこそ朝から晩まで野球漬けにした。22日間で完全休養日はわずか3日。3、4日に1度程度のローテーションを組む他球団と比較され「高校野球のようだ」とも言われたが、上田にとってみれば足りないものだらけのファイターズをペナントレースで1年間戦わせるためには、時間がいくらあっても足りなかった。
 突然の上田流スパルタ野球にチームの疲労はピーク、雰囲気は最悪…。キャンプ後のオープン戦はそれが結果にそのまま現れた。13試合で2勝11敗、勝率1割5分4厘。チーム打率も12球団唯一の1割台、防御率は5点近くと、全くと言っていいほど期待の持てない数字で公式戦に臨むことになった。
 案の定、6月終了時点で借金12の最下位。さすがの上田もサジを投げかけたが、夏場に入って途中加入のバーナード・ブリトー外野手が56試合で21本塁打と打線の起爆剤となると、投手陣も16勝を挙げたグロスを中心に安定。4位まで順位を押し上げた。
 95年後半の戦いぶりから期待された96年は5月に首位に立つと、そのまま独走。前身の東映フライヤーズが優勝した62年以来、34年ぶりに前半戦を首位で折り返した。
 しかし、球宴をはさんだ後に急に失速。勝率7割以上のオリックスに猛追され、8月31日に函館で近鉄に競り負けるとついに首位陥落。残り20試合で巻き返すことはできず、2位に終わった。 
 致命的だったのは、まだ優勝のチャンスがある中での上田監督の休養騒動。家族が新興宗教にのめり込んだことで悩み、家族を家庭に戻すために監督を降りるというものだったが、結局は退任にはいたらなかった。
 この騒動でチーム内の闘争心は完全に萎えてしまった。若手を鍛え、外国人の力を借りながらチームが生まれ変わりつつあった時期だけに、名将の気の迷いは完全にいい流れを断ち切ってしまった。その後、日本ハムが優勝を勝ち取るまで10年の歳月を費やさなければならなかった。

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