日めくりプロ野球 2月

【2月25日】1957年(昭32) キャンプ中なのに…高橋ユニオンズ解散決定

[ 2008年2月16日 06:00 ]

解散前年の56年の高橋ナインのひとコマ。チームの中心選手だった(左から)加藤一昭、兵頭冽、佐々木信也のいずれも内野手。佐々木は「プロ野球ニュース」のキャスターとして有名
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 予期していたこととはいえ、いざ現実を突き付けられると、40人の選手は動揺した。「これから野球ができるのか」と落ち込む若手、「女房子供がいるんだぞ。お偉いさんの勝手な都合で俺たちを路頭に迷わせる気か」ベテラン選手は荒れた。
 3年前、パ・リーグ7球団制の日程編成上の不都合是正とセ・リーグに対抗して人気獲得を狙って産声を上げた、高橋ユニオンズ(55年はトンボ・ユニオンズ)はこの日、パ・リーグオーナー会議で、大映スターズ(現ロッテ)に吸収合併され「大映ユニオンズ」として57年のシーズンを戦うことが決定した。
 高橋の所属選手は、56年のリーグ下位チーム近鉄(5位)、東映(6位、現日本ハム)、大映(7位)に選手と各球団双方の希望を加味して振り分けられ、引き取り手がない選手はとりあえず大映が面倒をみることになった。
 04年の近鉄とオリックス合併時もそうだったように、高橋の合併・解散はシーズン中からくすぶっていた。それがより具体化したのが57年2月。表向きはセパ合わせて東京4、関西3とフランチャイズが集中している状態を整理し、パがセと同様6球団制を目指すというものだったが、実際は球団拡張政策に失敗し観客数減を招いたことへの後始末。高橋球団創立を無理やり実現させた、永田雅一・大映オーナーが責任を取る形で高橋を引き取ることになった。
 岡山県営球場でキャンプ中の高橋ナインに解散の一報が伝えられたのは、2月25日午後7時半。高橋竜太郎オーナーから笠原和夫監督への電話からだった。不安な表情の選手に笠原監督は伝えた。「オーナーは一人の犠牲者も出さないと明言された。大映と合併するにしても、野球を続けることには変わりはないのだから、明日からもしっかり練習しよう」。
 とは言われても、選手は落ち着かない。その気持ちを代弁するかのように翌26日は雨で練習は中止。やろうと思えばできた小雨だったが、あすをも知れぬ身分の40人は野球どころではなかった。
 選手同士で自分たちのこれからをあれこれ想像してみたり、苛立ちのあまり口論を始める者さえいた。重苦しい雰囲気を嫌った一部の選手は街に繰り出し映画館へ、朝から晩まで酒をあおるベテランを止める者はいなかった。
 旅館の食堂にある練習日程が記された黒板には、皮肉にも「27日 対大映オープン戦」とあった。「今さら」とつぶやいた若手の選手が、こう書き換えた「対大映紅白戦」。オープン戦は結局中止に。代わって高橋オーナーが特急列車で岡山に駆けつけ笠原監督以下ナインに事情を説明。個別面接で希望球団を尋ねるなど、選手個々のケアに務めたが、一方的なオーナ側の都合で運命を翻弄された選手は「どうせ希望通りにはならないよ」という自暴自棄の言葉ばかりがきかれた。
 正式な解散は3月6日。10日近く“放置”された選手は県営球場に一同に集められ、そこへ大映・松木謙治郎監督、近鉄・大北弦代表、東映・岩本義行監督が現れた。「伊藤四郎(投手、56年21勝)、近鉄」「佐々木信也(内野手、56年新人で180安打の日本記録樹立)、大映」…1人ずつ名前を呼ばれ、新しい所属球団が言い渡される光景は“売られていく”という雰囲気であまりにも惨めだった。
 「サヨナラ高橋球団」と書かれた小さな横断幕とともに、最後に写した写真の表情は、誰もこわばっていた。近鉄に引き取られた4人、同じく東映の6人はその日のうちに大阪、東京へと連れられて行き、残った大映所属の30人は13日に倉敷で合流した。
 高橋オーナーの胸中はこの瞬間いかばかりだったか。“ビールの父”と呼ばれ戦前、大日本麦酒(現アサヒビールとサッポロビールの前身)社長を務め、戦後は吉田茂内閣で通産大臣となった立志伝の中の人物は、選手としての球歴こそないが、野球が三度のメシよりも好きだった。
 愛媛・松山中学(現松山東高)から旧制三高(現京都大学)に進んだが、野球は大の早稲田ファン。商用で中国にいた時も、早慶戦見たさに帰国。試合が終わると、また戻って仕事をするほどだった。プロ野球がまだ職業野球といわれていた戦前、既に財界の大物になっていた高橋は資金難に苦しむ「イーグルス」を援助したこともあった。
 そんな高橋に球団設立の話が持ちかけられたのは1953年末。パ・リーグ総裁の大映・永田オーナーからだった。球団拡張政策で観客動員増を目論んだ永田は「金銭、選手とも全面的にこの永田が援助します」との言葉で口説き落とし、78歳で既に隠居の身だった高橋も「この年寄りがプロ野球のお役に立てるのなら」と、私費を投じて球団を創設した。
 初代監督は前年まで阪急を指揮していた浜崎真二に決まり、プロ野球史上初の個人名が付いた球団が誕生。愛称ユニオンズは2万通に及ぶ応募で選ばれたというが、高橋が愛した「ユニオンビール」からきているという説もある。
 ほとんど毎試合、ユニオンズの試合を観戦するため、球場に足を運んだが、来る日も来る日も負け試合ばかり。それでもオーナーは「頑張ってくれればいい。いつか勝てるようになるさ」と勝てばポケットマネーで賞金を出し、身銭を切って選手の給料の足りない分を補填したりもした。
 永田の約束とは裏腹に各球団から集まってきた選手は二軍並か実績はあっても既に峠を越えた“ロートル”ばかり。若手もすぐには戦力にならなかったが、それでも1年目は健闘し、7位東映に1・5差、8位大映には9差をつけ6位。今後の飛躍が期待されたが、55、56年は連続最下位。当時、勝率3割5分を切ったチームは連盟に500万円を支払うという規定があったが、55年は42勝98敗1分で3割ちょうどで罰金の対象になった。翌年は52勝98敗4分、3割5分1厘でなんとかしのいだものの、戦力的に南海(現ソフトバンク)に7勝14敗1引き分け、優勝した西鉄(現西武)には5勝16敗1引き分けと、一軍と二軍ほどの力の差があり、勝負にならなかった。
 狙いの一つであった観客動員も期待はずれ。本拠地川崎球場は閑古鳥が鳴き、最終年高橋の1試合平均の観客数はわずか2174人。最多である巨人の2万1242人の1割程度の入りでは球団を強く使用にも金が捻出できなかった。2年目の55年、永田はトンボ鉛筆に運営資金を供出させ、今で言うネーミングライツでトンボ・ユニオンズと名乗ったが、チームの成績不振でトンボも撤退。再び高橋となったが、状況は変わらず解散の日を迎えた。
 パが6球団になるのはその翌年の58年から。大映と毎日の話し合いがつき、永田がオーナー職にとどまることでチーム名が「大毎オリオンズ」となった。高橋所属だった選手は2年続けて合併劇の渦中に身を置く数奇な運命をたどった。

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