日めくりプロ野球 2月

【2月22日】1964年(昭39) “沖縄の星”安仁屋がプロ初登板、冴えた元祖カミソリシュート

[ 2008年2月16日 06:00 ]

安仁屋(中央)と同じ64年入団の森川(左)、西川の期待の3投手。安仁屋以外は現役生活10年待たずにに引退した。帽子の「H」のマークが懐かしい
Photo By スポニチ

 オープン戦の時期になった。期待の新人、若手が主役となる序盤戦は各球団とも勝負は度外視に注目の選手が実戦で力を発揮できるかどうかを見極めるのが主目的だが、63年セ・リーグ最下位だった広島は国鉄(現ヤクルト)との初戦に戦後初めて沖縄からプロ野球選手となった、ルーキー安仁屋宗八投手を先発に送った。
 ノンプロの琉球煙草出身とはいえ、まだ19歳。「おい、ハチ」と、名前の宗八から由来するニックネームで白石(勝巳)監督に呼びとめられたのは2日前のことだった。「鹿児島(鴨池球場)で投げさすぞ”ってに言われてずっと緊張していた。落ち着く暇もなく終わってしまったという感じ」と安仁屋。5回を投げ2安打無失点。4回まではパーフェクト投球。本当に落ち着かなかったのか?と問い返したくなるほど、沈着冷静な打者18人へのピッチングだった。
 「負け惜しみではないが、あの程度のボールなら公式戦で打てる。いまのうちだから、ほめてあげなさいよ」。ルーキーに三振を喫した、4番・豊田泰光三塁手は番記者にそんな言葉を吐いて、悔しさを紛らわしていたが、親しい記者には本音を漏らした。「あのシュートはいいね。鋭いだけじゃなく、コントロールもある。しかも新人なのにどんどん内角を突いてくる。いい投手になるよ」。
 かつて西鉄ライオンズ黄金時代を築いた豊田の眼力は確かなものだった。当初は沖縄という当時日本にとって“外国”だった場所から選手を獲得する話題性が先行しての入団という見方が大勢を占めていた。安仁屋も周囲の視線には敏感だった。「そういう面もあったと思う。だからこそ、速く結果がほしかった」。
 1年目の64年6月14日、巨人18回戦(広島市民)で4安打完投でプロ初白星。豊田が褒めたシュートを多投し、内野ゴロの山を築かせ柴田勲中堅手のソロ本塁打による1点のみという完璧な内容だった。
 「沖縄の人たちは思わず万歳したことだろうなぁ」と、白石監督は感慨深げ。“沖縄の星”と呼ばれた、安仁屋の巨人戦初先発の噂を聞きつけ、沖縄にもこの日初めてプロ野球がテレビで生中継されたからだった。「沖縄県を代表してプロ野球でやっているという気概をいつも持っていた」という安仁屋にとって、それはプロ初勝利以上の重みがあった。沖縄では巨人から初白星を挙げたカープの背番号16の話題で数日間持ちきりとなった。
 以後、安仁屋は「2人の安仁屋がいる」と評されるようになった。安仁屋は18年の現役生活で通算119勝(124敗)だったが、うち34勝が巨人戦で球団別では2番目の大洋(27勝)より7勝も多い。「沖縄ではテレビもラジオも巨人戦しか中継しなかった。みんなに僕の活躍を知ってもらうにはジャイアンツを倒すのが一番喜ばれた」。カミソリシュートといえば、大洋で201勝を挙げた、平松政次投手の代名詞だが、元祖カミソリシュートは実はこの安仁屋といってもおかしくない。酒豪かつ球界きっての麻雀の名人という別の顔も持つが、マウンドに上がればいつも郷土沖縄の期待を背負ってV9時代のジャイアンツに立ち向かった。
 巨人戦に闘志を燃やした安仁屋だが、もとは巨人ファン。少年時代、ラジオから聞こえるプロ野球中継は巨人戦ばかりだったのだから自然の成り行きだった。
 沖縄高(現、沖縄尚学高)では62年夏、エースとして南九州大会(宮崎・沖縄)で宮崎・大淀高を倒し初めて県外の高校を破っての甲子園出場を果たした。船で24時間かけて本土に渡っての勝利だった。甲子園では1回戦で広陵高(広島)に4-6で敗退したが、琉球煙草に入り大分鉄道管理局の補強選手として都市対抗に出場したことでプロスカウト陣の目に留まった。
 しかし、沖縄はまだ米国統治下にあり、訪ねるにはパスポートが必要だった。各球団のスカウト陣がパスポート取得に時間を取られている間、広島でスカウトも兼ねていた平山智外野手がはいち早く沖縄入りした。平山はハワイ出身の日系二世。パスポートはいつも手元にあったのが幸いした。一番早く交渉のテーブルについたことが安仁屋の運命を決めた。
 71年以降低迷し、75年に阪神へ移籍。シュートだけでなく、スライダーとのコンビネーションを覚えたことで復活し、この年12勝7セーブ。防御率1位と新設されたカムバック賞第1号選手となった。
 81年に古巣広島で引退。カープで投手コーチなどを経験し、その手腕は高く評価されている。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る