日めくりプロ野球 2月

【2月16日】1979年(昭54) 南海・門田、アキレス腱断裂 どうなる住宅ローン!?

[ 2008年2月6日 06:00 ]

アキレス腱断裂から復帰した門田は背番号44で復活。81年は自身初の本塁打王を獲得した
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 「ブチッ」という音とともに1メートル72、82キロの身体は高知・大方球場の芝生の上に崩れ落ちた。あまりの激痛に10日後に31歳の誕生日を迎える男は悲鳴を上げ、ほおを涙が伝わった。
 担架もなければ、医師もいない。球団に1人だけいたトレーナーもどう対処していいか分からず、右往左往するばかり。ようやく戸板で運び出され、救急車が到着するまでの25分間、男の頭の中でこう思った。「あかん。もう野球選手は終わりや」。
 南海の主砲・門田博光外野手が右足アキレス腱を断裂したのは、キャンプ合流11日目。準備運動でジャンプをして着地する際のことだった。疲労の蓄積、この日から履いた真新しいスパイク、「硬すぎる」と多くの評論家や選手が危惧していたグラウンド…。さまざまな要因はあったが、全治2カ月、ブレーができるまで最低4カ月という重傷は、前年の不振を払しょくすべく選手生命を賭けていた門田を絶望の淵に追いやった。
 78年オフ、奈良市内に土地付き一戸建て住宅を購入したばかり。まだ住宅ローンは残っていた。アキレス腱はケガが再発しやすい箇所。復帰してもこれまでのようなプレーはできないかもしれない。アキレス腱断裂は門田にとって“死亡宣告”に近いものだった。
 高知で2週間、大阪の病院に移って入院生活を送り、リハビリを続けた門田。その間にシーズンは始まっていた。連日、ライバル選手の活躍が伝えられる中、焦る心を落ち着けるため没頭したのが、天理高校時代から素養のあった絵画だった。絵を描きながら無心になる。そうでもしないとどうにかなってしまいそうだった。
 もう一つは読書。中でも友人が差し入れてくれた中国・明時代の人生訓話集「菜根譚(さいこんたん)」は、その後の門田の人生の指針となった。筋が多く硬くて食べずらい根菜類もゆっくりよく噛んで食べれば、味もよく分かるということから、ものの真の意味を理解しながら生きなさいと諭す書物。この1冊と1日中向き合っているうちに、門田は「今立ち止まって野球について、人生について考える時間をケガによって神様にもらったんだ。人生最大のピンチは、最大のチャンスになるかもしれない」と納得するようになった。焦る気持ちは次第に思考への時間と変わり、精神修養の時期になった。
 79年9月に復帰。19試合で2本塁打17打点をマークしたが、ケガの影響で守れない、指名打者専門の選手に球団の風当たりは冷たかった。79年5位の南海はバッテリー強化に門田を交換要員として、トレード先を模索。これに巨人・長嶋茂雄監督が話に飛び付いた。
 実際には具体的交渉にならず、話は立ち消えとなったが、門田は80年を迎えるにあたって心中期するものがあった。背番号27を44に替えたのも80年だった。日本人が嫌う「死」を意味する4が並ぶ番号には意味があった。門田は少年時代に母親を亡くしているが、その時の母親の年齢が44歳だった。母親への人一倍強い思慕、と同時に門田はこんなことも思っていた。「一度は死んだ身。いつまたアキレス腱がダメになるか分からない。毎打席“これが最後”という気持ちで打席に入るためにもこの番号を選んだ」。
 さらに門田の闘争心に火を付けたのは9歳長男のひと言だった。「お父さんは本当に王選手と野球をしたことがあるの?」。日本シリーズで巨人と対戦したときはまだ2歳、球宴で全パの4番を張った時でさえ、まだ幼稚園児だった長男は、父親の輝かしい場面の記憶は薄かった。門田は息子に言った。「今年は王選手も出るオールスターに出て打ちまくるよ」。
 前半戦、22本塁打52打点、打率3割7厘で近鉄・西本幸雄監督から声がかかり、3年ぶりに球宴出場。7月19日、西宮球場での第1戦、7回裏一死一塁で門田は代打に起用された。76年まで南海でチームメイトだった広島・福士(松原)明夫投手のシュートをジャストミートした打球は、ライトスタンドへ一直線。豪快な2ランホームランだった。
 76年7月18日、巨人・小林繁投手から1回に先制2点弾を放って以来の球宴での一発に、門田は一塁ベースを回って、巨人・王貞治一塁手の横を通り過ぎる瞬間、一塁側スタンドに向かってガッツポーズをした。それはホークスのグリーンの帽子をかぶり家族とともに観戦している息子へ約束のプレゼントを贈ったことへの誇りを表現したものであった。
 門田は球宴第2戦(7月20日、川崎)は巨人・西本聖投手から、第3戦(22日、後楽園)は広島・江夏豊投手から、それぞれ代打で中前打を放ち3打数3安打。「打ちまくる」と息子に誓ったオールスターで、門田は有限実行のカッコイイ親父となった。
 80年、指名打者でのみで111試合に出場した門田は、自身初の40本塁打以上(41本)を記録。打率こそ3割に届かなかった(2割9分2厘)が、見事カムバック賞を獲得。あれだけ心配していた住宅ローンの支払いの見通しもついた。
 朗報にマスコミから、友人知人から、奈良の門田家の電話は鳴りっぱなしとなった。夫人は対応に追われたが、本人はなんと行方不明。家族に行き先も告げず、風来坊の旅に出ていた。携帯電話もない時代、いつどこで受賞の一報を知ったのだろうか。自慢話が大嫌いな男は、独りきりになって喜びをかみしめたかったに違いない。

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