日めくりプロ野球 2月

【2月13日】1970年(昭45) 今年もやるはずだったのに!?中日・小川、背面投げ練習

[ 2008年2月6日 06:00 ]

69年6月15日、王に対して背面投球をした瞬間の小川。わずか2球しか投げなかったが、球場は大いに盛り上がった
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 中日の明石キャンプ。独りブルペンに残り、木俣達彦を相手に練習を続ける男がいた。背番号13のアンダーーハンド、前年20勝の小川健太郎投手。弱体のドラゴンズ投手陣を引っ張るエースの投げ込みは既に終わっていたが、小川は木俣に言った。「これからが本番や」。
 まだ、やるのか。木俣は正直なところあきれていた。そんな後輩捕手の気持ちなど構わず、小川はセットポジションに入ると、いきなりボールを持っている右手首を背中の方へまわし、ひょいっとスナップをきかせて投げた。これが独自に開発した球界初の「背面投げ」。当時7年連続本塁打王の巨人・王貞治一塁手対策にと小川が試した漫画のような“魔球”だった。
 69年6月15日、後楽園での巨人-中日9回戦の3回裏、中日先発の小川は王に対しカウント2-0から決め球に選んだのは、この背面投球だった。球はかろうじて外角に外れボール。あ然とする王、どよめく4万の観衆。66年5月16日に王に初めて本塁打を打たれて以来、この日まで9本塁打を浴びていた小川は「少しでもタイミングが狂ってくれれば」との思いで、木俣捕手らを相手に連日練習を重ね、この瞬間を迎えた。
 6回にはカウント2-1から再度投げたが、ワンバウンドのボール。ウイニングショットにはならなかったが、これで王の緊張感が切れた。3回は右飛、6回は2-3から見逃し三振。試合は小川が8回途中まで好投したものの、左腕伊藤久敏投手を挟み、救援に立った新人の星野仙一投手が被安打5失点4で逆転を許し3-8で中日は黒星。小川は前代未聞の背面投げでの白星とはならなかったが、一瞬で王のタイミングを崩したことは間違いなかった。
 「小川、いつから曲芸やるようになったんだ」。王の一本足打法生みの親、荒川博打撃コーチが野次ると、気の強い小川は「股の下からも投げられるで」とやり返した。「練習では3球投げれば1球はストライクだったのに」と小川。それだけの自信作も、以後試合で投げることはなく、わずか1時間程度で短命に終わったはずだった。
 しかし、小川は諦めていなかったのだ。周囲は「まだやる気だよ」と笑ったが、小川は真剣に、今度こそ魔球で打ち取ると燃えていた。
 遠回りの野球人生だった。中日入団からさかのぼること10年の54年(昭29)。東映の入団テストに合格しプロ入り。翌年8月27日の西鉄戦に先発を言い渡されながら、前日に先輩と殴り合いのケンカをしてその機会を逸して、結局退団。その後、社会人野球から準硬式、果ては草野球レベルのものまで経験した。
 変則タイプ右の中継ぎを探していた中日は64年、都市対抗野球で補強選手として出場した、既に29歳、3児の父親の小川に注目し獲得。性格そのままの攻めの投球に加え、打者の打ち気をそぐナックルが、西沢道夫監督の目にとまり65年5月12日、中日球場での大洋4回戦にプロ初先発し4安打1失点で完投勝ち(中日7-1大洋)を収めた。実に31歳4カ月、11年かけてのプロ初勝利だった。
 65年から2年続けて17勝ずつ挙げると、たちまちドラゴンズのエースまでのぼりつめ、67年には55試合に登板し29勝で最多勝。サブマリン投手としては初の沢村賞を獲得した。特にV9真っ只中の巨人には強く、67年は6勝1敗(通算16勝)。67年7月26日、地元中日球場で3年ぶりに開催されたオールスター第2戦では先発投手として登板した。
 屈折した野球人生から得た哲学は「男がコンプレックスやひがみ根性を持たないで何ができる」。登板過多で右腕が曲がったまま伸びなくなったが、息子に足で踏ませて治してしまうという嘘のような本当の話で、弱体だったドラゴンズ投手陣を引っ張った。
 背面投げを再度披露するチャンスをうかがいながら、小川は70年のシーズンを迎えた。4月12日の巨人との開幕戦に先発し、長嶋茂雄三塁手に本塁打を浴びるなど8安打3失点も、スローカーブを使った投球と味方の援護で10-3で完投勝利。あと6勝に迫った100勝も余裕で達成するかにみえた。
 しかし、それから1カ月もたたない5月6日、八百長オートレースに関係していたとして小川は逮捕された。その後野球でも八百長をしていたことが発覚。球界を永久追放になった。小川は公判で68年から69年にかけて、元暴力団員に頼まれ登板試合数試合に八百長をしたことを認め、69年7月26日の大洋16回戦(川崎、大洋2-0中日)で敗戦投手となり、現金70万円を受け取ったと証言。報酬はこのとき以外は受け取っていないと釈明したが、復帰の道はこの1回の過ちで絶たれた。
 追放後は名古屋でスナックなどを経営。自らシェーカーを握り、カクテルを作った。洋酒を置く棚には沢村賞受賞記念の楯が飾られていた。
 八百長事件に関して「ノセられた自分が馬鹿だった」と反省の毎日を過ごしていた95年10月8日、肝臓ガンのため死去。享年61歳。晩年、背面投法のことを聞かれると「あれくらいのことをしないと、あのころのワンちゃんは抑えられなかった。恥ずかしくはなかったよ」と周りからはふざけているようにみえたことも、本人は真剣だったことを強調していた。

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