日めくりプロ野球 1月

【1月9日】1959年(昭34) 近鉄、猛牛監督就任でパールスからバッファローへ

[ 2011年1月7日 06:00 ]

 通算1605安打、ライト打ちの名人と呼ばれた“猛牛”千葉茂を巨人2軍監督から新指揮官に迎えた近鉄は、愛称を変更。「バッファロー」に決定し、創立以来の「パールス」は9年でお役御免となった。

 スポニチなどスポーツ紙4紙が後援して一般からニックネームを募集。1万8447通の中で最多だったのが、千葉の現役時代の代名詞を英語にしたものだった。他に「フェニックス」というのも最終選考に残ったが、「千葉監督を迎えてチーム名もなじみの深いものにしたい」と大北弦球団代表ら首脳が一致した考えで決まった。

 「名は体を現すというが、歩みは遅いが新生近鉄は粘り強い力のあるチームにしたい。バッファローは私が理想とするダイナミックなスケールの大きいという点でも気に入っている」と満面の笑みの千葉監督。後に発表されたシンボルマークは、千葉監督と後楽園球場で草野球をしたのが縁で懇意となった天才画家・岡本太郎の手によるもの。千葉が巨人を飛び出し勝負に出ると聞いた岡本は、酒がほとんど飲めない猛牛を酒屋に呼び出し、話をしながら図案を考えたという。

 9年間で最下位が5回、3位以上は皆無。当時の近鉄はプロとは名ばかりのチームだった。球団改革に乗り出した大北代表は57年、選手を引退し、巨人の2軍監督に就任していた千葉に新監督就任を打診した。大北と千葉は、東京・銀座の同じ洋服店でスーツを仕立てていたことを知り意気投合した仲だった。

 大北のラブコールに千葉は当初、全くといっていいほど耳を貸さなかった。川上哲治一塁手とともにポスト水原茂として、巨人の次期監督の座を争っていた真っ只中だったからだ。

 しかし、水原監督の腹はこの時すでに決まっていた。水原は川上の他の1軍選手に対する影響力を評価しており、対立していた品川主計球団社長派とみられていた千葉は疎んじられていた。

 酔った勢いもあったのだろうが、2軍監督に就任した57年春のキャンプで水原はこんなことを口走っていた。「シゲさん(千葉のこと)、どこかへ行って男を上げたらどうだい」。2軍監督になるにあたって水原は「将来の巨人軍を担う選手を育ててくれ」と、千葉に頼んだが、実際ファームを重要視しておらず、水原は体よく1軍から背番号3を追い払ったというのが関係者の見方だった。

 巨人監督の座を夢見ていた千葉の後継者の芽はなくなっていた。と同時に、2軍で指揮を執るうちに別のチームでもかまわないから、思い切り手腕を振るってみたいという思いにかられるようになった。それを象徴するかのように当時千葉は、同じように巨人を追われ、九州へ“都落ち”した、西鉄・三原脩監督に近鉄行きを相談している。

 「球団を持っている関西4私鉄の中で、近鉄は資本力が1番あるチームだ。君のような名の通った人が監督を引き受ければ、親会社も球団に投資するようになる。悪い話じゃない。巨人でくすぶるよりは新天地に希望を持った方がいい」。煮え湯を飲まされた水原巨人をこの時点で2度日本シリーズで破った三原らしいアドバイスだった。

 そして、巨人の3連勝、4連敗となった歴史に残る西鉄との日本シリーズ第1戦当日の10月11日、後楽園でなく球団事務所に姿をみせた千葉は品川社長に言った。「背番号3も長嶋茂雄という最高の選手が継いでくれたし、巨人で私のやるべき仕事は終わった。誘われている近鉄で自分の力を試してみたい」。

 西鉄に3度目の敗北を喫し、川上も現役引退したことから、水原の去就も危うくなったが、千葉に声がかかることはなく、11月28日に千葉の近鉄監督就任が決まった。

 自らの愛称を球団名に頂いた千葉だが、近鉄での3年間はあまりにも惨めなものだった。3年連続最下位。特に最終年の61年はプロ野球70年以上の歴史でただ1回のシーズン100敗(最終的には103敗)を記録。首位南海と51・5ゲーム差をつけられた。この年、巨人から東映の監督になった水原との対戦は9勝19敗と完膚なきまでにたたきのめされた。

 千葉は晩年、愛憎入り混じった巨人を叱咤激励し続けたが、近鉄時代のことについては口が重かった。千葉の目に映った当時の近鉄の選手は、技術以前に勝負への執着心がなく、競争心もない。先制点を許せば今日も負けという雰囲気がベンチに漂い、調子が良ければたまに勝てるといった気持ちで試合に臨んでいた。常勝を求められた巨人の野球が身についていた千葉にとってそれは信じられないと同時に屈辱であった。そのことを語る気にはどうしてもなれなかったのである。移動の特急電車の座席をそれまでの三等から二等に、旅館のグレードも上げるなど、プロ野球選手としての誇りを持たせようとしたが、笛吹けど踊らずであった。

 千葉は在任中、かつてのエース大友工投手や加倉井実外野手など8人もの巨人出身者を近鉄に入団させた。伝統ある巨人の勝つ野球、厳しい野球を体験してきた血を注入しようとしたからにほかならない。それでもチームは変わらなかった。逆に「巨人、巨人とうるさい。だったら早く東京に帰れ」と選手に陰口を叩かれる始末だった。

 巨人へのこだわりについて千葉はこう説明している。「(近鉄で)吾輩は完全に巨人のイメージを捨てて、つまりアングルを下げて見るべきだったかもしれませんが、それは吾輩はいさぎよしとしないのであります。巨人軍で鍛え育ってきた吾輩であり、巨人の魂を、そこに植えつけていくのが吾輩が近鉄に乞われた理由でもあるんじゃないか(略)そうした姿勢を崩すことは、吾輩はどうしてもできなかったわけで」(千葉茂著「猛牛一代」、恒文社)。

 千葉一人がムキになり、千葉一人が思い悩んだバッファロー。別当薫新監督が就任するとニックネームは皮肉なことに「バファローズ」と複数形になった。

 千葉退陣から8年。猛牛が私淑していた三原が近鉄監督となった際、「三原のオヤジは助監督として千葉さんを招いたんだ」とは三原の娘婿で当時西鉄監督だった中西太。屈辱を晴らすチャンスを四国の後輩に与えてやりたかった勝負師三原は優しい人でもあった。

 千葉は61年にユニホームを脱いだ後、40年間現場復帰は一度もせず、02年12月10日、就寝中に静かに息を引き取った。(08年1月9日掲載分再録)

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