日めくりプロ野球 1月

【1月24日】1985年(昭60) 中日・田尾安志、契約更改から4日後に西武へトレード

[ 2011年1月1日 06:00 ]

 熱愛中だった歌手の松田聖子が、郷ひろみとの破局を告白した翌日、中日で1番の人気選手も10年近く慣れ親しんだ名古屋と別れることになった。

 この日、中日・田尾安志外野手と西武の左腕杉本正投手、大石友好捕手のトレードが成立。田尾はたった4日前に年俸20%アップの4800万円で契約更改したばかりだった。84年からドラゴンズの指揮を執った、山内一弘監督と同じ職人肌の気質が相容れず、フロントとも契約をめぐる確執が取りざたされた選手会長だが、当初西武から持ちかけられたトレード話で田尾の名前は挙がっていなかった。

 西武は84年に阪急(現オリックス)の後塵を拝し、V3を逸して3位に転落。オフには復活したライオンズ野武士軍団を支えてきた、主砲田淵幸一一塁手と内野の司令塔山崎裕之二塁手がそろって引退。弱体化した打線のてこ入れに目をつけたのが、中日の主力打者で83年の本塁打王、大島康徳外野手だった。

 中日と西武のパイプは絶えて久しかった。76年オフ、当時はクラウンライターだった西武へ、中日・藤波行雄外野手が移籍拒否を貫いて以来、両球団のトレードは1件もなかった。関係修復を図ったのは、“被害者”の西武の方だった。西武は大石捕手と左のワンポイントで活躍していた永射保投手で交換を打診。過去のいきさつから申し入れに応じたい気持ちはあった中日だが、出した答えは「大島を現時点で出すつもりはない」というものだった。

 西武の大島獲得はフロント主導だったが、現場の声は少し違った。「中日とトレードをやるなら、田尾が欲しい」と訴えたのは、広岡達朗監督の参謀役黒江透修ヘッドコーチだった。中日のコーチ時代から黒江は田尾のチームプレーを大事にした姿勢を評価していた。

 4年連続3割、82年には大洋・長崎啓二外野手と最後まで首位打者争いを演じ、左投手を苦にせず本塁打も20本前後打てる打撃は、守備に不安があり長打はあるが穴の多い大島よりも広岡好みであることを見越しての訴えだった。広岡は田尾を「それほど高く評価していなかった」(阪急・上田利治監督)が、黒江の進言で風向きは変わった。

 一方、中日も84年に広島と最後まで優勝争いをしながら競り勝てなかったのは、打線に比べ投手力のコマ不足が原因とみていた。とりわけ左腕の先発投手は都裕次郎投手1人という状態で、左の先発型投手の補強が急務であることは確かだった。西武が永射ではなく、杉本を交換要員にして中日以外の球団にもアタックしているという情報を得ると、今度は中日側から交渉を申し出た。左の好打者が多いセ・リーグ、とりわけ対巨人に杉本が通用すると踏んだ山内監督はトレードを希望。西武が田尾を要求すると、左打者の多いドラゴンズはベテランの放出を了承した。

 ナゴヤ球場での自主トレ終了後に、田尾は球団からトレードを通告された。「これがプロか、と思った。僕を欲しいと言ってくれる西武でファンに納得してもらえるプレーをしたい」と球団に対する恨み言は一切口にせず、ドラゴンズと決別した。ライオンズの4年間で33勝を挙げた杉本は、エース東尾修投手に言葉をかけられると、おもわず涙を流した。最初はトレード候補でなかった2人が双方のチーム作りの思惑の中で新天地へ行くことになった。

 トレードは両チームにとってプラスの方向に働いたといえる。田尾は85年、3割を切り2割6分8厘に終わったが、核弾頭あるいは3番打者として活躍。打点60は15年の現役生活で2番目の数字をマークし、西武のV奪回に貢献した。

 杉本はトレード初年こそ5勝4敗に終わったが、翌年から2年連続2ケタ勝利。88年の中日優勝メンバーとして、古巣西武相手に日本シリーズ第3戦に先発している。大石も中尾孝義捕手、若手だった中村武志捕手のスーパーサブとして存在感を示し、西武とのシリーズ第1戦に先発マスクをかぶった。

 中日、西武ともこのトレードを機に商売相手としてお得意さんの間柄になった。85年から4年連続で両球団によるトレードが成立。87年オフには中日・平野謙外野手と西武・小野和幸投手を交換。小野は移籍後いきなり18勝4敗で最多勝を獲得し、星野仙一監督の初優勝の立役者となった。

 けがをしている間に急成長した彦野利勝外野手に押し出される形となった平野も西武で復活。森祗晶監督が不動の一番に置き、常勝西武のリードオフマンとして息の長い選手となった。

 1つのトレードが、選手の可能性を広げ、優勝につながるケースもあることを証明したのはとても意義深い。チームの主力級を出すことで、新陳代謝を活発にしたトレードは、積極的に行われるべきである。 (08年1月24日掲載分再録)

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