日めくりプロ野球 1月

【1月22日】1982年(昭57) “2年がかり”の自由契約 クビにした途端もう1人のマニエルが…

[ 2009年1月1日 06:00 ]

78年10月15日、阪急との日本シリーズ第2戦で逆転の場外2点本塁打を放ったマニエル。近鉄と合わせて3回出場したシリーズで計5本塁打を放った
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 5年目の米ユマキャンプを迎えたヤクルトは到着早々、チャーリー・マニエル外野手の自由契約を発表した。
 ユマキャンプ初年の78年にヤクルト初優勝に貢献し、近鉄移籍後もリーグ2連覇をもたらした“優勝請負人”も38歳。前年の81年に復帰したスワローズで12本塁打38打点と期待はずれに終わった助っ人にかつての面影はなかった。
 実はマニエルとヤクルトは年俸5000万円の2年契約を結んでいた。しかし、マニエルが近鉄を退団した際に金銭面で折り合いがつかなかっただけでなく、火種を抱えていたことを察知したヤクルトは契約である条件を付けていた。

 条件は「心身ともに野球ができる状況でない場合は2年目の契約はしない」というもの。離婚問題という火種を抱え、それが不振の一因と判断した球団はこの条件を盾に金銭補償なしで自由契約にした。
 マニエルは81年のシーズン終了後から「来年は30本塁打打てる。体はどこも悪くない」と主張。現役続行を申し出、ヤクルトがクビを切るというなら法廷闘争も辞さないと息巻いた。
 しかし、離婚問題に触れられると「プライベートなことは話したくない」と逃げの一手。金銭が必要なマニエルは粘りに粘ったが、契約書の前には膝を屈するしかなく、ようやく折れたのが年明け。前年から“2年がかり”の騒動に終止符が打たれた。
 マニエルが引き下がった背景には再就職先として、大リーグ、ミネソタ・ツインズのマイナーで指導者の口が見かったということがあるようで、翌83年にはツインズの1Aで監督に就任した。
 マニエル騒動の収拾のメドがついた直後、もう一つの“マニエル騒動”が起きた。ヤクルトが懇意にしている関係者から「マニエルを獲得しないか?」という冗談のような話が持ちかけられた。
 「バカにしているのか!」とフロントが怒りそうなものだが、話を聞いてみるとこうだ。「モントリオール・エクスポズにジェリー・マニエルという小柄な遊撃手がレギュラーから控えに回り、球団を出たがっている。年俸も3000万円程度で日本でプレーしてもいいと言っている」。
 “赤鬼”マニエルだけでなく2年連続コールデングラブ賞のジョン・スコット外野手をけがのため泣く泣く切ったヤクルトは新外国人探しに難航していたことから、格安でメジャーリーガーが獲得できるならと腰を浮かせかけた。
 が、フロントは引っかかるものがあった。実力よりも性格よりも「マニエル」という名前。「しばらく聞きたくない名前だ。縁起良くないよ」。結局交渉にも至らず話は流れた。
 このジェリー・マニエル、後にホワイトソックス監督として00年にア・リーグ最優秀監督に選ばれ、09年もニューヨーク・メッツで指揮を執る名将となった人物。名前にこだわらず獲得していたら…。日本球界に何らかの影響を与えたかもしれない。
 解雇されたチャーリーもその後、クリーブランド・インディアンスの監督などを経て、08年にフィラデルフィア・フィリーズ監督としてチームを28年ぶり世界一に導き、日本での6年間の活躍が再度クローズアップされた。
 大酒飲みで喧嘩っ早い大男が指導者の立場になった時、反発し合ったかつてのボス、広岡達朗元ヤクルト監督にこんなことを言ったことがある。「あなたの言っていたことがようやく分かった。勝利のためには自分が求めているものに対する努力、集中という対価が必要だ。日本での練習、チームへの貢献を学んだ私は米国に帰って指導者となり、自分をコントロールできるようになった。日本でプレーしていなかったら、監督をやることもなかっただろう」。
 早出特打ち、走り込み…、マニエル監督の推奨する練習は、多くの外国人が嫌うメニューばかりだ。しかし、結果が出ればそれは認めざるをえない。09年、フィリーズは連覇というさらに高い目標をクリアできるか。マニエル監督の手腕が試される。

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