日めくりプロ野球 1月

【1月21日】1995年(平7) 雑草エース西本聖、万感の多摩川引退試合に「代打長嶋」

[ 2009年1月1日 06:00 ]

通算165勝を挙げた西本。うち巨人では152勝をマーク。中日時代の4年間での対巨人戦は8勝8敗だった
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 “166勝目”の試合は決して華やかではなかった。が、この男の生きざまに共感し励まされてきた仲間がセッティングし、積極的に告知もしなかったのに人づてに話を聞いて集まった約3000人のファンの後押しによって最高の試合となった。
 巨人軍多摩川グラウンド。晴天とはいえ、寒風吹きすさぶ中、94年限りで20年の現役生活に別れを告げた、巨人・西本聖投手の引退試合が行われた。ジャイアンツ同期入団の定岡正二元投手らが発起人となり、巨人OBや現役選手、一時在籍していた中日からも中村武志捕手や与田剛投手が駆けつけた。ドラフト外で憧れの巨人に入団し、来る日も来る日も1軍目指して汗を流し、涙に暮れた多摩川。定岡のように鳴り物入りでプロ入りしたわけではない。すべての出発点はここから。最後のマウンドには最もふさわしい場所だった。

 楽しみながら投げられた。当初5回の予定が集まったファンの要望もあって7回まで延びた。2安打無失点の最高の投球をみせ、いよいよあと一人となった時に相手の定岡“監督”が、平光清球審に告げた。「代打、ナガシマ」。
 この試合の始球式を行ったのは巨人・長嶋茂雄監督だったが、まさか試合に出場するとは…。ファンへの、そして西本への最高のプレゼント。ただでさえ泣きそうだった西本の目が潤んでいたのは、冷たい北風のせいだけではなかった。
 突然の出番にセーターにスラックス姿の長嶋監督。昔と同じようにやや前かがみになった打撃フォームで初球の真っ直ぐをたたいた。当たりはボテボテの三塁ゴロ。巨人・桑田真澄“三塁手”のダッシュは、遠慮がち。革靴のまま現役時代さながらに全力疾走するミスター。内野安打となり、観衆もベンチも大盛り上がりだった。
 西本は後続を抑え“166勝目”を挙げた。これで終わった。笑顔の西本に長嶋監督が近づく。両手でがっちり握手をした。微笑んでいた西本の顔が涙でくしゃくしやになった。「ドラフト外で入った男がこういう形で…。いろいろな方が引退されたけど、僕は最高だと思います」。西本はそう言うのが精いっぱいだった。
 思えば長嶋監督で始まり、長嶋監督で終わったプロ野球人生だった。長嶋ジャイアンツ1年目、75年(昭50)年の入団発表の席で、監督に声をかけられ期待されているドラフト1位の定岡の後ろでうらやましそうな顔をしていた西本。雲の上の人には近づくことさえできなかった。
 2年目、初めて1軍に呼ばれた。初登板は忘れもしない76年4月15日の阪神2回戦。8点差の敗戦処理のマウンドだったが、マイク・ラインバック右翼手にダメ押しの3点本塁打を浴びた。愛媛・松山商高時代に届かなかった甲子園のマウンドで醜態をさらした19歳の少年に、その年は2度とお呼びがかからなかった。
 1軍で勝ち星がつき始めた後、広島で四死球を連発し試合をぶち壊した夜に長嶋から何発も殴られたことがあった。「なぜ逃げるんだ!打たれて命がとられるのか!」。忘れられない痛みだった。
 それ以来、西本は真っ向勝負の投手に成長した。江川卓投手と2人で巨人の屋台骨を支え、沢村賞を受賞。しかし、長嶋は既に巨人を去っていた。中日、オリックスと渡り歩き、最後の活躍の場所を原点である長嶋巨人に求めた。テスト生でキャンプに参加、長嶋はコーチ陣の反対を押し切り、西本を採用した。与えた背番号は90番。かつて長嶋が監督として背負っていた番号だった。
 昔の師弟の情で採用したのではない。「もちろん戦力になると判断した。それにあのはい上がろうとするガッツを若手投手が学んでほしい」というのが合格の理由だった。
 94年、長嶋監督は77年以来のリーグ制覇を果たし、初の日本一に。西本は1軍で1度も登板せずに終わったが、長嶋監督の心の中には常に西本の存在があった。キャンプインまであと10日の忙しい時期にチームを去る選手のために1日を割いたのもそのためだった。
 長嶋は言った。「入ってきた時の素質は大したことはなかったが、不屈の闘志でここまで実績を残した。彼の財産だね。こういう選手がいたことを忘れてはならない」。雑草投手への最高の贈る言葉だった。

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