日めくりプロ野球 1月

【1月3日】1999年(平11) 藤川球児、故郷で大物女優とバッタリ「標準語だった」

[ 2009年1月1日 06:00 ]

02年9月にプロ初勝利をマークした藤川は涙、涙。大きく花開くまでに入団からこの初勝利を経て6年の歳月がかかった
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 帰省して同級生や友人と旧交を温めることも多いお正月。98年の阪神ドラフト1位、高知商高・藤川球児投手は、入寮を2週間後に控えたこの日、高知の街で偶然、中学の同級生の女の子に出会った。
 藤川に連れがいたため、久しぶりの再開もほんの数秒、あいさつを交わした程度だった。「“こんにちは”が標準語になっていました」とニキビ面の18歳は土佐弁をしゃべっていた昔の彼女が、もう身近ではなく別の世界の人になってしまったことを実感した。彼女の名前は、広末涼子。女優としてテレビにCMにと活躍する、超がつく売れっ子の芸能人だった。藤川と広末は高知市の城北中学校の同級生。自宅も自転車で10分程度の距離だった。

 98年11月20日、ドラフトで夢だったプロ野球から声がかかった藤川に、広末はマスコミ各社の要望に応じてコメントを発表した。「藤川くんの夢が叶って、私も自分のことのようにうれしく思っています。(略)自分の目標に向かい努力を続け、夢のスタート地点に立っている藤川くんをとっても尊敬しています」。藤川の父親が軟式野球でノーヒットノーランを達成した際に生まれたことで「球児」と名付けられたという“秘話”まで広末は知っていた。
 夢の第一歩を踏み出した同級生の快挙は、広末自身にも勇気を与えた。ドラフトから2日後、今度は広末が“運命の日”を迎えることになっていたからだ。11月22日は広末が志望する早稲田大学の推薦入学試験。コメントには「私も負けずにがんばらなくちゃ!と思います」という言葉があった。「彼女はずっと頭が良かったから大丈夫ですよ。頑張ってほしい」と、藤川もドラフト指名後にエールを送った。
 広末が言う「夢のスタート地点」に立った藤川だが、現実は厳しかった。“阪神の高卒ドラ1は育たない”のジンクス通り、入団してからの3年間で1軍にいたのは、2000年のみ。19試合に登板しただけだった。
 今でこそ絶対的な守護神として君臨する藤川だが、当時は球速145キロが出るか出ないかといったところ。4年目の02年にようやく1勝したが、度重なる肩やひじの故障で6年目まで4勝5敗の成績。次々期待の新戦力が入団する中で、故障持ちの藤川はいつ解雇されてもおかしくない立場にいた。
 そんな藤川を救ったのが2軍投手コーチだった山口高志。昭和50年代前半、剛速球という代名詞がピタリとくる、阪急を3年連続日本一に導いた伝説の右腕だった。
 現役時代、真上から腕を振り下ろす豪快なフォームで三振を取りまくった山口コーチは悩める藤川に言った。「投げる時に右ひざを地面につけようとせず、ただ腕を上から強く振り下ろせ」。軸足の“タメ”を意識しすぎて、腕が振れていない藤川に、まずは鞭がしなるような強い腕の振りを意識させた。軸足でためたパワーも腕の振りが鈍ければ死んでしまうからだ。長年のクセに試行錯誤しながらもフォームが固まると、藤川のストレートは今までにはない、回転でボールが捕手のミットに収まるようになった。140キロ前半の真っ直ぐは、回転数が増すことで優に150キロを超えた。
 04年の終盤戦で手応えをつかんで臨んだ05年。「JFK」のリリーフ3本柱の活躍で岡田彰布監督率いる阪神はリーグ優勝したが、80試合を投げ、防御率1・36で最優秀中継ぎ投手となった藤川の貢献度は圧倒的だった。
 今や球界を代表するストッパー。抑えて当たり前という投手になった。3月のWBC、そして4年ぶりのリーグ優勝、24年ぶりの日本一へと夢は大きく膨む。

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