日めくりプロ野球 12月

【12月31日】1965年(昭40) オリオンズ、本格派右腕木樽と大みそかに入団合意

[ 2010年12月1日 06:00 ]

 最近ではよほど強硬指名しない限り、入団交渉が難航することは少なくなったが、第1回ドラフトが行われた42年前は逆にすんなり入団するケースの方が珍しく、全指名選手132人のうちなんと53%にあたる70人がプロ入りしなかった。後に大学や社会人に進み、他球団に入団した選手も多かったが、今のようにある程度入団の感触を探った上で指名するようなことはせず、とりあえず有望な選手を指名して後はスカウトの交渉次第。そんな時代だった。

 広島の18人、大洋の16人に次いで3番目に多い15人を指名した東京(現ロッテ)も例外ではなく、9人に入団拒否された。そんな厳しい状況下で、永田雅一オーナーが辣腕の青木一三スカウトに「この男だけでは何が何でも入団させい!」と厳命した、2位指名の千葉・銚子商高、木樽正明投手がオリオンズ入りを承諾したのは、大みそかのこと。65年最後の夕日が沈みかけた午後も4時を回った頃だった。

 木樽の獲得も難航を極めた。発端はドラフト当日だった。夏の甲子園で準優勝投手の実績は、甲府商高の堀内恒夫、兵庫・育英高の鈴木啓示を含めた高校ビッグ3投手の中で頭抜けていたにもかかわらず、指名は東京2位。全体で15番目の指名だった。堀内が巨人の1位、鈴木が2位とはいえ、2位のトップをきっての指名だった中で「評価が低い」と木樽だけでなく、関係者はへそを曲げ「頭を下げてプロに入ることはない。大学で4年間やってからでも遅くない」と、入団拒否の姿勢をとった。

 木樽自身、東京六大学中でも早稲田で投げたいと言う気持ちがあった。銚子商高の斎藤一之監督も「銚子商から六大学で活躍した選手はいないし、後輩の励みにもなる」と進学に前向きな考えを示した。

 青木スカウトは同僚スカウトとともに特急電車で海産物加工業を営む木樽の実家を数回訪ねたが、色よい返事は聞かれなかった。しかし、「金も出すが口も出す」永田オーナーの獲得命令がある以上、あきらめるわけにはいかなかった。

 青木は阪神スカウト時代からの顔の広さを利用し、銚子商の関係者だけでなく、当時の銚子市長、“政界の寝業師”と呼ばれた千葉県選出の自民党副総裁・川島正次郎衆院議員まで動かし、交渉の突破口を開こうとした。

 だが、最終的に東京入りに難色を示す木樽に入団を決意させたのは青木のスカウトとしての経験から出た言葉だった。「投手で身を立てようと思うなら、大学へ進んで4年間腕を磨くよりも、高校を出てすぐにプロに飛び込み、一流打者を相手に相手にもまれた方が出世は早い」。

 木樽もどうしても進学というわけではなかった。最終的にプロの世界へ入るなら、青木スカウトの言う通りなのかもしれない。年末、木樽は東京入団を決めると「さっぱりした気持ちで新年を迎えたかった」と年内にその意思を青木に伝えたかった。急きょ決まった入団合意に、青木は休日を返上して銚子へと向かったのだった。

 年明けの1月11日、東京・京橋の大映本社で正式契約。木樽の太い眉毛に力のある目を見た永田オーナーは「俳優としてもいける。オリオンズの顔になる」と大喜び。与えられた背番号20は、大毎在籍時の2年間付けていた“元祖フォークボール”の杉下茂、巨人から移籍して活躍した堀本律雄投手の流れを汲む期待の番号だった。

 速球とシュートを武器に、投げ終わった瞬間、大きな目を見開いて打者をにらみつけることから付いたニックネームが「お仁王さん」。入団直後から腰の痛みに悩まされ続け、針治療などさまざま方法を試し、復調してはまた再発の繰り返しという試練のプロ生活だった。

 通算81安打6本塁打の成績が示すようにバッティングの良さから打者転向も検討されたこともあった。腰の治療費を球団が負担し、復活に期待をかけたが「顔を洗うのに腰も曲げられないくらいの痛さ」に耐えられず、76年で引退した。

 現役11年で通算112勝80敗、防御率は3・05。70年に21勝を挙げ、オリオンズの10年ぶりの優勝に貢献しパ・リーグMVPに。その前年の69年には防御率1・79でで最優秀防御率、71年は24勝で最多勝とこの3年間が全盛期だった。

 特に南海戦には強く通算31勝(17敗)。野村克也選手兼任監督に「あのシュートがやっかいなんや」と言わしめた。74年の中日との日本シリーズ第5戦(後楽園)で2安打完封勝利を挙げ、ロッテ初の日本一へ王手をかける役目を果たしたのが、最後の晴れ舞台だった。(07年12月31日掲載分再録、一部改変)

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