日めくりプロ野球 12月

【12月23日】1986年(昭61) ロッテ、ついに落合放出 中日と1対4のトレード発表

[ 2010年12月1日 06:00 ]

 「8年間ロッテで野球をやってきて抜けるのは寂しい」「知らないところへ行くんだから不安でいっぱいです」「トレードは驚いているというほか言いようがない」。言葉とは裏腹に、その表情は落ち着きを払い、余裕すら感じた。

 あと1時間45分でクリスマスイブという午後10時15分、東京・西新宿のロッテ本社で三冠王3度の落合博満内野手の中日へのトレードが発表された。淡々と記者の質問に答える落合の横に座る松井静郎球団社長らの表情も三冠王を手放すといった深刻さはなく、むしろ喜んで送り出すといった雰囲気。約20分の会見を終えると笑顔で握手。退団というより、門出を祝うセレモニーのようにも見えた。

 落合の会見が始まる5分前、東京から約400キロ離れた名古屋・国際ホテルの中日・中山了球団社長の表情はそれとは逆に沈痛だった。落合との交換でロッテに行かなければならなくなった4選手を発表し、牛島和彦投手、桑田茂投手、平沼定晴投手、上川誠二内野手の4人の名前が読み上げられた。

 その約3時間前、桑田、平沼、上川3人がホテルに呼び出され、続いて岐阜・下呂温泉でオーバーホール中だった牛島も到着。個別にロッテ行きが通告された。話し合いを終え、ホテルから出てきた選手はみな放心状態。「(新監督に就任した)星野監督と一緒にやりたかった…」と平沼は肩を落とし、上川は無言のまま、桑田は「今は何も言いたくない」と報道陣の問いかけを遮った。3選手はその場で渋々トレードを了承したが、牛島だけきっぱりこう言った。「2日間待ってほしいと言った。返事はしていない」。

 ここ2年、思ったほどの成績が挙げられなかったとはいえ、抑えに先発にとドラゴンズ投手陣の柱の1人という自負があった牛島は、翌24日球団関係者の説得にも応じず「引退も考えている」とまで思いつめた。最後に説得に乗り出したのは星野仙一新監督だった。80年、大阪・浪商高からドラフト1位で入団して以来、弟分として可愛がってきた牛島を諭すようにユニホームを着ている意味、トレードの意味を説いた星野だったが、牛島は首を縦に振らなかった。

 それが一転してトレードを了承したのは、25日。言ったとおり2日間で答えを出した。なぜ星野の前で承諾しなかったのか。「監督の立場はよく分かった、理解もできた。中日に恨みもない。むしろ、自分を責めた。中日に必要な選手だったら出されなくてはずなのにと。だからトレードも仕方ない。でも監督の前ではいそうですか、と返事をしたら僕の値打ちを下げると思った。記者さんたちにも48時間は決めんと言ったしね。ただそれだけです」。強気な投球の反面、駆け引きも得意とする牛島らしい人生の選択の答えの出し方だった。

 1対4の大型トレード劇の始まりはどこだったのか。最下位だったチームを2年連続2位にしたロッテ・稲尾和久監督が86年4位に転落すると、球団は即座に解任。後任は“ミスター・オリオンズ”、通算2000本安打を達成した有藤通世監督に決定した。

 11月4日、西鉄ライオンズのエースだった稲尾前監督の“本拠地”ともいうべき九州・福岡で「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言した落合。調整も練習も“オレ流”を通す落合の行動を許した指揮官だからこそ、チームにとどまっていたが、これでロッテを去る決意ができたという決別宣言だった。

 球団も戦力ではあったが、落合の言動はもてあまし気味だった。重光武雄オーナーは落合の理解者ではあったが、球団内部では、新監督就任を機に「今が売り時」という空気が支配的になった。

 ロッテ側は数年来落合に興味を示し続けてきた、3年連続V逸の巨人に打診した。正力亨オーナー自らが窓口となったが、交換要員で折り合いが付かない。巨人が出血を少なくしつつ、落合を獲得しようとする腹が透けて見えた。背景には85年、近鉄への移籍を通告した定岡正二投手がこれを拒否。任意引退した記憶が生々しく残っており、落合欲しさに強引なトレードはできないという現場の要望があった。

 一方、中日の動きは具体的だった。まず12月12日に「落合放出の際には声をかけてほしい」とロッテに連絡。その1週間後にはトレード要員リストまで用意。投手8人野手2人の計10人で、そこにはトレードになった4選手のほかに、前年の85年に17勝を挙げ最多勝、沢村賞に輝いた小松辰雄投手、若手の成長株・川又米利外野手らの名前まであった。

 「名球会」のハワイ旅行で不在の有藤監督に代わり、実質的に人選の中心となったのがヘッドコーチ格の高木公男総合コーチだった。ロッテは86年、ストッパー不在のため先発の核だった荘勝雄投手を抑えに回していたため、荘を先発に戻すためにまずリリーフ経験豊富な牛島獲得が第1希望となった。

 続いて高木コーチは上川の堅実な守備と86年セ・リーグ打撃成績8位の打率(2割9分5厘)に魅力を感じ獲得を要請。左腕桑田は8年でわずか通算6勝もこの年初の完投勝利を収め、速球が魅力の平沼も同年プロ初勝利を挙げ、これからの飛躍が十分期待できたことから選出した。

 88年、移籍2年目の落合は勝利打点19でドラゴンズ6年ぶりの優勝に貢献。期待の生え抜き指揮官で74年以来の優勝を目指したロッテだったが、5位、6位、6位と低迷した。桑田はロッテで1つも勝てないまま、通算6勝12敗で89年に引退。上川も89年に112試合に出場したのが最高で一度も規定打席に達しないまま93年、872安打51本塁打、打率2割7分1厘で現役を退いた。

 平沼は息の長い投手となった。9年間ロッテに在籍した後、古巣中日に復帰したのは96年。落合は既に巨人へ去っていた。98年には西武へ移り、同年引退。奇しくも落合もこの年日本ハムを最後に選手生活に別れを告げた。「落合さんがより先に辞められない」という意地が平沼を支えていた。通算342試合18勝22敗5セーブ。

 名古屋を離れるとき、「ロッテで1番になる」と誓った牛島はすぐに答えを出した。移籍1年目の87年、26セーブポイントで最優秀救援投手賞を受賞。これが初のタイトルだった。

 89年に先発転向で12勝と獅子奮迅の活躍をしたが、93年肩痛と周辺の筋肉などが血管や神経を圧迫することによる手や指のしびれが災いして、32歳の若さで引退。通算53勝64敗126セーブ。卓越した投手理論は信奉者も多く、解説者時代にチームの投手コーチではなく牛島にアドバイスを求める有名選手も少なくなかった。

 2年間、横浜の監督を務め、05年は3年連続最下位のチームをAクラス3位に引き上げた。早期の現場復帰を望む声は球界の中でも多い。(07年12月23日掲載分再録、一部改変)

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