日めくりプロ野球 12月

【12月21日】1976年(昭51) トレード拒否貫き通した中日・藤波に球団が大甘処分

[ 2010年12月1日 06:00 ]

 クラウンライター(現西武)へのトレードを頑なに拒否し続けた、中日・藤波行雄外野手の残留が決まり、球団はこの日処分の内容を発表した。

 (1)来春のキャンプは自費参加(2)開幕2軍スタート、公式戦の第3節(14試合分)終了まで出場停止の2項目が主なもの。現状維持の年俸390万円(推定)で契約更改し、背番号は40に変更。3年間付けていた背番号3は剥奪され、新外国人のウイリー・デービス外野手のものとなった。

 「ゴネ得した藤波を許すと、他球団のトレードにも影響する」と球界では重い処分を望む空気だったが、中日側が藤波に課したペナルティは非常に甘かった。「球界に禍根を残さないという前提からして、処分は公正かつ妥当ではないか」と小山武夫球団社長は見解を述べたが、同時にトレードを通告された竹田和史投手は松林茂投手と交換でクラウンへ移っており、藤波がわがままを言ったにもかかわらず、年俸も現状維持というのは納得できないという声が関係者からは上がった。

 中日側が甘い処分で手打ちをしたのはなぜなのか。既に全盛期が過ぎた高木守道二塁手の後釜にと、与那嶺要監督たっての願いでクラウン・基満男内野手の獲得を目指した中日は、左打者を求めるライオンズに竹田とともに藤波の放出を決定。11月24日、2人に通告した。

 しかし、藤波は強く反発。「僕は中日が大好きです。ライオンズに行くくらいなら引退する」とまで発言して周囲を慌てさせた。

 それに加勢するかのように、ファンが「藤波放出反対」運動を起こし始めた。女子高生らが署名活動をし、1万人を超える人数を集めれば、球団事務所には連日抗議電話が殺到。中には当時の中日のキャンプ地浜松のファンから「藤波をトレードに出したら、浜松のキャンプは無事にできると思うなよ」という脅迫まであった。

 中央大学時代に現在も破られていない東都大学リーグ記録の通算133安打を放ち、73年にドラフト1位で中日入りした藤波。1年目に代打として打率2割8分9厘をマーク。勝負強い打撃が評価され、新人王を獲得したことで、若者を中心に藤波の人気は根強いものとなった。

 中日は74年に20年ぶりにリーグ優勝を果たしたものの、その後2位、4位と後退。ファンのイライラは募るばかりで、その上若手のホープを放出することに怒りが爆発したのが抗議行動につながった。

 中日は当時とても家庭的な雰囲気のチームで、人気選手やタイトルホルダーをトレードしない不文律があった。しかし、ハワイ出身の日系人である与那嶺監督は現状打破のためには積極的な血の入れ替えが必要と判断。藤波のトレードの前には、中軸を打っていた島谷金二内野手や先発の一角として活躍した稲葉光雄投手を阪急にトレードした。

 与那嶺監督の方針を支持していたはずの球団だったが、藤波騒動が広がりを見せると、ファン離れを恐れるようになった。藤波の態度も変わらず、困り果てた小山社長は12月に入り「トレードの話を白紙に戻してくれ」とクラウン・中村長芳オーナーに頭を下げた。怒ったのはセ・リーグなら喜んで移籍するとしていた基だった。「プロ野球選手として失格だ。トレードなら引退すると言っているんだから、中日もそうすればいい」と、プロ10年目の内野手は3年目の外野手にコケにされたことに不機嫌だった。

 結果として残留することになった藤波。背番号は40に変わって、自費で1軍の浜松ではなく、2軍の蒲郡キャンプに参加したが、ここで球団はまた驚かされる。連日藤波見たさにファンが殺到。休日は1軍キャンプの観客500人を大きく上回る2000人に。町中の文房具店から色紙がなくなるという珍現象まで起きた。

 谷沢健一、田尾安志、デービスら左打者の外野手が豊富な中日で、“いわくつき”となった藤波に与那嶺監督は戦力として期待していなかった。しかし、風は藤波に向かって吹いていた。開幕直後に谷沢が死球で故障、田尾がスランプに陥り、4番の左打者、トーマス・マーチン一塁手が右わき腹を痛め戦列を離れるというアクシデントが相次いだ。しかもチームは12試合で3勝9敗の最下位。ペナルティーは開幕から14試合の出場停止だったが、残り2試合を前に切羽詰った中日は4月23日の大洋4回戦(福井)から藤波を1軍に昇格させた。

 その大洋戦の7回、2点を追う中日は梅田邦三遊撃手に代えて藤波を起用。大洋・根本隆投手から右前打を放った。試合は負けたが藤波は興奮していた。「何ものにも代え難いヒットだ。この感激を忘れずに一生中日のために働きたい」。その後も1軍に残り、過去3年間最多の68安打を記録し打率は3割1分8厘。6本塁打は現役14年間で最高記録となった。

 「一生中日のために」の言葉通りを実践して87年に引退。現役を続けるならトレード先を探すという球団の申し出も断った。代打の切り札的存在で通算539安打24本塁打186打点、打率2割7分3厘。引退後も中日戦中継の解説を務め、ドラゴンズ一筋の人生が今でも続いている。(07年12月21日掲載分再録、一部改変)

続きを表示

バックナンバー

もっと見る