日めくりプロ野球 12月

【12月18日】1992年(平4) 横浜、最初のドラ1は小桧山、背番号はあの「19」

[ 2010年12月1日 06:00 ]

 横浜大洋ホエールズ改め横浜ベイスターズとして新たなスタートを切った92年オフはドラフトで7人の選手が入団。横浜市のホテルリッチでの入団発表は“ドラフト8位”として紹介された新マスコットの「ホッシー」のお披露目もあって華々しく行われた。

 “ゴジラ”松井秀喜内野手(星稜高)にも、高速スライダーの伊藤智仁投手(三菱自動車京都)に目もくれず、1位で指名したのが日本石油のエースでバルセロナ五輪日本代表の銅メダリスト、小桧山雅仁投手。平均145キロの直球とフォークのコンビネーションで、慶大時代から活躍。「1年目から間違いなく2ケタ勝てる」とスカウトも太鼓判を押した。

 球団史上最高額(当時)の契約金1億2000万円はその期待の現われ。金額に負けず、この日の入団発表の席上堂々と「新人王を狙います。目標となる投手はいない。人から目標にされる投手になる」と強気の発言を繰り返した。

 さらに驚いたのは背番号「19」だった。その1年前、当時19番を付けていた投手が少女へのわいせつ事件で逮捕され退団。事実上、永久欠番というのが暗黙の了解だった。 事件の記憶が生々しい中で、球団が小桧山に19を用意したのにはわけがあった。慶大野球部での小桧山の背番号は19、六大学リーグ戦通算19勝、チームが2季連続優勝したのは19年ぶりと、19にまつわる縁起の良いエピソードの持ち主だった。球団名も変わり、次代を担うルーキーが背負うことによって過去の忌まわしい出来事を忘れたいというベイスターズの意図がそこにはあった。当初、引退したばかりのエース遠藤一彦投手が付けていた「24」を小桧山に継いでもらいたいという意思を示していたが、「24はスマートな人には似合うけど、僕は…。事件のことは気になりません」と、小桧山はなじみのある19を選択した。

 ボトル1本は楽勝という大の酒豪が節制して臨んだ1年目は3勝(9敗)。通用すると思っていた自慢の直球が、プロの打者にはみな確実にとらえられたのはショックだった。焦って力任せの投球になり、低めにコントロールできるのが身上だったにもかかわらず、球が高めに浮き痛打を浴びる悪循で、翌年も2勝止まり。その後は全く勝てず、右ひじじん帯を断裂。97年チームが37年ぶりの優勝を目指し、ヤクルトを猛追している最中に左から腱を移植する手術を受けた。

 その間、トレード志願したこともあったが、球団は放出に踏み切らなかった。横浜は当時、慶大のスラッガー・高橋由伸外野手(現巨人)獲得に全力を注いでいたが、その“窓口”の一つとして、神奈川・桐蔭学園高から慶大と同じ球歴を歩んできた小桧山を使いたい考えがあったからという話もある。

 横浜の38年ぶり日本一にも登板なし。背番号19は横浜V1に貢献した、同期入団の戸叶尚投手の背中に移り、自身は30番に。年俸は入団時の1000万円を下回る950万円(推定)にまで下がっていた。

 99年は手術の影響で球速の出ない直球に代わる球として覚えたチェンジアップに活路を見出し1軍へ。4月29日、横浜スタジアムでの広島4回戦で3点負けている展開で3番手として登板し1回を11球、3人で抑えた。チェンジアップで打たせてとる投球をみせ、変身したことをアピールした。その直後にマシンガン打線が炸裂し逆転。最後は大魔神・佐々木主浩投手が締めて、小桧山は1710日ぶりの通算6勝目をマークした。

 「初登板の時より緊張した。勝ったことより、1軍で投げられたことの方がうれしい」。新人王宣言までした大物ルーキーは「投げたくても投げられなかった」日々のことを思い、目を真っ赤にしてこれまでの道のりを振り返った。2000年に自由契約となり、引退。通算9勝14敗4セーブ。台湾に渡り野球を続け、燃え尽きる場所を探した。

 “背番号19の呪い”は解けていなかったのか、小桧山の後に19を付けた戸叶投手も成績が伸びず2000年にオリックスへ移籍。戸叶とトレードで入団した、かつてのドラフト1位杉本友投手も横浜では1勝しかできず、ヤクルトへ。3年間で1軍登板2試合、05年入団の染田賢作投手がこの流れを断ち切ることはできず、10年現在は藤江均投手が付けている。 (07年12月18日掲載分再録、一部改変)

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