日めくりプロ野球 12月

【12月16日】1959年(昭34) “当たり屋”宮川孝雄が広島入団 スカウトでも大当たり

[ 2010年12月1日 06:00 ]

 59年オフ、広島は7人の新人選手を獲得したが、九州・門司鉄道管理局から入団した宮川孝雄外野手はただ一人、1ケタの背番号「2」を与えられた期待の新戦力だった。

 この日、川崎トキコから入団した中村忠男内野手とともに契約を済ませた宮川はプロ入りの意気込みをこう語った。「これまでプロ野球はあまり見ていなかったが、入った以上やれる自信はある」。左の代打の切り札「ミヤさん」、他球団からは球に当たりにいって死球を稼ぐ“当たり屋”と呼ばれた宮川のこれがプロ第一声だった。

 07年、ヤクルトの真中満外野手が打率、安打数などあらゆる代打記録を塗り替えたが、それまで代打起用回数87回(66年)、安打数22本(同、他2人)のセ・リーグ記録保持者は宮川。真中に破られなかったのは同じく66年にマークした代打での打点24。85年の大洋・平田薫内野手と並んでいまだに日本記録だ。

 「一番いい場面で、周囲が注目する中、打席に向かう。ウエーティングサークルからそこまでが、男の花道だと思ったね」(99年4月18日付、中国新聞)と、ひと振りかけた15年の現役生活。1日の素振りの数は1000回、続いて木刀も1000回振り下ろした。練習に合気道を取り入れ、呼吸の間合いを会得し、打席では相手投手の「呼吸を吸い取って打つ」という境地になって、勝負を挑んだ。常時代打成績は3割をキープし、72年はスタメン出場も含め打率4割4厘のハイアベレージをマークした。。

 67年オフには、代打専門でありながら、10勝級投手とのトレードに名前が挙がった。結局トレードは成立しなかったが、選手の力を見抜く眼力では定評のある根本陸夫監督が「出血覚悟」で宮川を指名したのは、無類の勝負強さが10勝投手との交換に値すると判断したからだった。

 宮川は死球王でもあった。66、67年はリーグ最多の死球を記録。打数が100前後と少ない中でのことから、他球団の投手の間からは「当たりにくる」という噂まで立つほどで“当たり屋”と呼ばれた。

 確かに死球に関するエピソードは事欠かず、たとえば数々の代打記録を樹立した67年、宮川はリーグトップの8死球を受けたが、打席数は96。12打席に1死球という驚異的な数字だった。07年現在通算196死球で日本記録保持者のオリックス・清原和博内野手が、48打席に1死球という割合を考えれば、その多さが分かる。

 72年6月20日の阪神11回戦(甲子園)では、カウント2-2から山本重政投手の直球を右ひじに受けたが、原田孝一球審はストライクのコールで三振とした。抗議する宮川だったが、原田球審いわく「腰をひねって逃げたようにも見えるが、右ひじを突き出していた」。“当たり屋”宮川に注目していた審判団は、その動きに目をつけていたのだ。

 宮川は「当たりに行ったことなどない」と否定し続けているが「腰をひねってよけているように見せて腕やひじをボールの来る方向に出すというテクニックを駆使していた」と話すセ・リーグの投手は多い。宮川は死球について「死球を出した投手は必ずと言っていいほど乱れる。それが失点につながる」という自論を持っていた。広島のスコアラーがV9真っ只中の巨人の投手陣調査したところ、死球のない試合は平均失点が3・3だったのに対し、死球を出した試合は4・8に跳ね上がるというデーターが弾き出された。

 宮川は広島初優勝の前年の74年オフに引退。75年から九州地区担当のスカウトに転進したが、ここで現役以上の実績を残した。カープただ一人の200勝投手、北別府学投手、炎のストッパー・津田恒美投手、今年2000本安打を達成した前田智徳外野手は宮川スカウトが担当した選手だ。

 前田に関しては熊本工高2年のときに初めて見てホレた。だがそれ以上に前田に食い込んでいたのは、九州へ進出してきた福岡ダイエーだった。「3位で指名する」というダイエー。広島の方針では4位がいいところ。半ば諦めていたが、89年11月26日のドラフト当日、ダイエーは3位でプリンスホテルの左腕橋本武広投手を指名した。

 「うそだろ。どうして?」とわが耳を疑ったという宮川スカウト。広島はダイエーの指名回避の結果、「あの打撃技術には脱帽。オレの比じゃない」(中日・落合博満監督)という逸材を獲得できた。宮川スカウトが初交渉をした際、意中のダイエーに指名されずにふて腐れる前田を一喝。「オレは約束どおり指名したぞ。男なら約束を守ったらどうだ」。以来、前田は「広島の親父」として宮川を慕うようになった。

 91年に村上姓となり、03年から06年まで広島のスカウト部長。選手を見極めるコツは「俊足強肩、顔、家族の3つ」。顔には「野球に対する知性が出る」とし、家族はその家風もそうだが「母親の体格を見る。太る体質のお母さんの選手は見送る」。選手、スカウトとして広島とのかかわりは半世紀にもなった。(07年12月16日掲載分再録、一部改変)

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