日めくりプロ野球 12月

【12月13日】1982年(昭57) 村田兆治、セへ移籍志願もオーナー一蹴 引退騒動へ

[ 2010年12月1日 06:00 ]

 ロッテ一筋現役23年。“昭和生まれの明治男”ともいわれた村田兆治投手が、わがままを言った。ヒジ痛で6試合わずか4勝(1敗)に終わった82年オフ、「セ・リーグに移籍したい」と言い出したのだ。

 村田は松井球団社長宅に訪れてまでトレードを直訴。ロッテを出たいという村田の意志は固く、松井社長は山本一義監督らとも協議の結果、巨人、阪神を中心に大型トレードをする腹を決めた。ヒジを壊したかつてのエースより、ジャイアンツなどから打診された交換要員の方が将来的に期待できると判断しての結論だった。

 12月13日、決定事項を重光武雄オーナーに報告した上で了承を得ようとした松井社長だが、普段球団経営にあまり口を挟まないオーナーが社長の言葉を遮った。「村田のトレードは認めん。わがままを許すな」

 トレード決定の会見を開く予定でいたホテルに松井社長が真っ青な顔をして戻ってくると、呼び出された村田と一室にこもった。約2時間半の話し合いを終えた村田の顔は怒りをあらわにしていた。「トレードに出してくれというのはわがままかもしれない。しかし、僕はこれまで球団に筋を通してきた。それを……」と絶句。「とにかくもう一度考えさせてくださいと社長にはお願いした」という言葉を残し、後見人と呼んでいる人物のもとへと向かった。

 松井社長、山本監督らから村田の“対決相手”は重光オーナーへと移った。そのオーナーが村田のトレード志願に集まった報道陣を前に強い決意を示したのは、日付が14日に変わる直前のことだった。「今年の成績が悪ければ来年は頑張るというのがエースの務めだ。村田君には移籍したいという決定的な理由が見つからない。会うつもりはない。わがままは許さない。最悪の場合は任意引退もあり得るでしょう」。

 村田は球団に対して再三にわたり改革を求めてきた。プロの球場設備とは程遠かった川崎球場の改装をはじめ、選手への待遇、積極的な補強などを訴えながら動く気配のないフロントにしびれを切らした。加えて、現役生活15年目とベテランの域に達し、ヒジも故障したことから、そう長くはない選手生命を思ったとき、閑古鳥が鳴くロッテの試合だけで終わるのはやり切れなかった。いつも大観衆に囲まれて試合をするセ・リーグ、できれば巨人で、それができなければ巨人相手に投げたいという気持ちが強くなった。

 79年オフ、ヤクルトからトレードを申し込まれたロッテは村田放出を決め、本人にも通告しておきながら、取り消した過去があった。そして今回も一度は了承しておきながら、オーナーの一声で狼狽した球団首脳は態度を翻した。「プロ野球選手は商品と一緒かもしれないが、いい加減品物扱いはやめてくれ」とあきれるしかなかった村田は、オーナーの任意引退発言に応戦。翌14日「ロッテに残ることはない」と断言。“チキンレース”の様相を呈してきた。

 これをいさめたのが、意外なことに気の短さでは人後に落ちない金田正一元ロッテ監督だった。当時、ロッテ球団取締役の肩書きがあったカネやんは、東京ではなく、わざわざ大阪で村田と会い説得。「ユニホームを脱いだら野球選手はおしまいや。ファンのためにも辞めたらあかん」という言葉に、村田のいきり立っていた気持ちは落ち着きを取り戻した。

 ライバルであるはずの阪急・山田久志投手からも電話がきた。「辞めるな。また勝負しよう」。200通を超えるファンからの「野球を続けて!」の手紙には正直なところ、かなり心に響いた。だが、振り上げた拳をどこに下ろせばいいのか。そうしているうちに月日は流れ新年を迎えた。

 1月8日、東京・新宿の球団事務所を訪れた村田。13分後に石原照夫球団代表とともに、報道陣の前に姿を見せた。「村田投手はロッテの選手として契約を完了しました」石原代表の発表に特に表情は変えることのなかったが、吹っ切れたように「ファンの温かい支援を得て男としてやるべき道はロッテ残留しかない。それがすべてだと思いました」と話した。騒動勃発から約1カ月。「大山鳴動してネズミ1匹すら出なかったね」と、ロッテのある選手はぼやいた。

 しかし、残留した村田の83年の1軍成績は残っていない。現役23年間でこの1年間だけ1軍で1試合も投げていないのは、手術のためだった。82年5月17日、川崎での近鉄9回戦に1回34球2失点で降板した際の右ひじ痛は、実はひじの腱が断裂していたもので、渡米しフランク・ジョーブ博士の執刀のもと腱の移植手術をした。

 山本監督と村田の相性は悪かったのだろう。看板の右腕の“完全休業”でロッテは前年5位から6位に転落。球団史上初の最下位(当時。毎日と合併した大映の2度の最下位は除く)となり、山本監督は辞任した。

 村田が日曜日のたびに投げては勝利投手になる“サンデー兆治”として、華々しく復活したのは85年。監督はかつての“鉄腕”稲尾和久に代わっていた。(07年12月13日掲載分再録 一部改変)

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