日めくりプロ野球 12月

【12月10日】2003年(平15) “アジアの大砲”李スンヨプ、日本球界へ

[ 2010年12月1日 06:00 ]

 シーズン56本塁打の韓国プロ野球新記録を樹立した、“アジアの大砲”李スンヨプ内野手が日本球界に挑戦することが決まった。東京都内でロッテの川北智一球団代表と李の代理人がインセンティブ(出来高払い)を含む2年総額7億円の条件で合意。背番号も韓国・サムスン時代の「36」が用意された。

 出来高払いは2億円だが、うち1億は“新記録”インセンティブだった。韓国で56発を放った李だが、1964年(昭39)の巨人・王貞治一塁手をはじめ、近鉄のタフィー・ローズ外野手(01年)、西武のアレックス・カブレラ内野手(02年)が記録した日本球界記録の55本塁打を抜いた際に支払われる契約となった。

 翌11日、ソウルで会見した李は周囲の反対を押し切り日本球界を選んだことについて「2年間在籍すれば無条件で大リーグ行きをバックアップするという条件に心がひかれた」とマリーンズへの入団が、メジャーへの“踏み台”であることを認めた。

 「2割9分、30本塁打を打てればまずまず」と1年目の目標を“控えめ”に口にした李。04年3月27日、西武ドームでの開幕戦。左翼席を埋め尽くしたマリーンズファンからの「ナーリョボリョ(かっ飛ばせ)」の大声援を受けて立った第1打席で西武・松坂大輔投手から右翼線二塁打を放った。一塁から堀幸一二塁手が長駆生還し、ロッテは先制点を挙げ、そのまま試合の主導権を握って開幕戦2年ぶりの白星となった。松坂の速球についていけるようにバットを韓国時代より30グラム軽い920グラムにするなど工夫しての“勝利打点”だった。

 しかし、その後大砲はなかなか炸裂しなかった。開幕20試合で2本塁打。焦る李にさらなる不運が待っていた。4月23日のオリックス4回戦(千葉マリン)で左腕テリー・ムーア投手から右ひじに死球を受けると、打撃の調子は下降線をたどった。さらに、右ひじをかばって出場しているうちに左ひじも痛めてしまい、5月に入るとまともにバットを振れない状態にまで悪化した。

追い討ちをかけたのが、内角攻めだった。両ひじを痛めコンパクトなスイングができなくなっているのに気づいた他球団の投手陣は徹底的にウイークポイントを突いた。

 5月10日、札幌ドームでの日本ハム7回戦にスタメン落ちした李はその夜、バレンタイン監督と話し合いを持ち、2軍降格を言い渡された。4月上旬、3割5分3厘あった打率は、この時点で2割3分3厘。5月は1割2分で規定打席に到達しているパ・リーグの打者36人中34位にまで落ち込んでいた。

 睡眠時間3時間で帰京した李は、そのまま浦和で行われるイースタンリーグの巨人戦に出場。韓国時代、ルーキーの時もファーム経験がなかったプライドはズタズタになった。韓国メディアもスーパースターのファーム行きに大騒ぎ。「2軍墜落」「5・11ショック」などと伝えられた。

 6月に1軍復帰を果たしたが、結局最後までアジアNO.1打者の力は出せず、8年ぶりに30本塁打を割る14本塁打、打率2割4分はプロ最悪の数字となった。

 2年目こそ30本塁打82打点と大砲の片りんをみせ、ロッテの31年ぶり日本一に貢献したが、バレンタイン監督は左投手がからきし打てない李を戦力として物足りなさを感じており、球団も年俸は現状維持の2億円とし、優勝のご祝儀をはずまなかった。

 ロッテ残留を表明していた李だが、06年1月になって球団と合意の上で自由契約になり、巨人に契約金5000万円、年俸1億6000万円で移籍。2年前、メジャーからのオファーもあったが、ロッテでの成績の芳しくないことで今回は二の足を踏んだ。小学校の野球部の部室に貼られていた世界の本塁打王・王貞治を尊敬していた李は、憧れのジャイアンツのユニホームに袖を通すことになった。

 巨人に移った李は別人、いや韓国時代の輝きを取り戻した。06年、4位に終わった巨人の中で一人気を吐き、打率3割2分5厘はリーグ2位、本塁打41打点108をマークし4番に定着。07年は2割7分4厘、30本塁打74打点とやや精彩を欠いたが、巨人の5年ぶりリーグVに貢献した。(07年12月10日掲載分再録 一部改変)

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