日めくりプロ野球 12月

【12月3日】1977年(昭52) 江川が2度目の入団拒否、クラウン蹴って米国留学へ

[ 2010年12月1日 06:00 ]

 怪物は2度目の1位指名でもプロ入りしなかった。

 「指名された球団(クラウン)は、関東に住む私にはなじみの薄かったこと、球団が遠隔地(九州・福岡)であるため、私の関係者が私のプレーを見られないという意見も多かった。今まで私はこれら関係者の多大な援助を受け、育ってきたので無視することができなかった」。

 師走最初の土曜日。東京・平河町にある後見人、自民党副総裁船田中(ふなだ・なか)氏の事務所で法政大・江川卓投手は、11月22日のドラフト会議で1位指名したクラウンライター(現西武)への入団拒否の声明を発表、クラウン側に対して正式な入団拒否の通告をした。

 江川は船田一族が経営する、母校の作新学院高の野球部コーチの肩書きで、知人のつてを頼って米・南カリフォルニア大に留学する道を選んだ。とはいっても、同大の学生になるわけではなく、客人扱いで野球部に練習生として所属するというものだった。社会人のチームに入れば、2年間はドラフト対象外になる。回りくどい浪人の道を選んだのは、あくまでも“巨人入り”を目指す江川にとっては、窮余の策だった。

 巨人の江川獲得への根回し工作、周囲の巨人入団への執念も常軌を逸していた。ドラフト当日、クラウンが指名順位1番のくじを引き当てると、指名前の昼食休憩時に、巨人・正力亨オーナーはクラウンの中村長芳オーナーに「お話があります。別室に行きましょう」と声をかけた。指名順位2番の巨人が、クラウンの江川指名の可能性を探ろうとしているのは明らかだった。

 中村オーナーの腹は決まっていた。ドラフト前に船田事務所を通じて、巨人以外の指名はお断りを宣言をしたやり方を快く思っていなかった一方で、投手として最高の逸材であることは認めていた。チャンスがあれば「1位は江川」。その考えにブレはなかった。中村オーナーは巨人の誘いには乗らず、そのまま江川を指名。巨人はやむなく、同じ東京六大学の早大・山倉和博捕手を1位で入札した。

 江川家には船田の懐刀である蓮実進秘書が「クラウン側と接触しないように」と交渉に応じることを禁じた。指名当日、坂井保之代表と毒島章一スカウトが栃木県小山市の実家を訪れた際に、江川家は門前払いこそしなかったものの、「船田先生の顔に泥は塗れない」と繰り返し、交渉は平行線をたどった。

 ところで、江川は本当にジャイアンツ以外は眼中になかったのか。江川はその著書「たかが江川されど江川」(1988年、新潮社)の中でこう記している。「もちろん巨人に入れれば最高だとは思っていたけれど、もしもヤクルトや大洋に指名されたなら、すんなり入団するつもりだった(略)“在京セ・リーグなら”ということを心に決めていた」。

 在京セにこだわった理由として、交際中だった夫人との遠距離恋愛が「恐ろしく想像もできなかった」ことと、慶大志望だったものの受験に失敗し法大に進学したことが「大学受験に続いて憧れのプロ入りまで希望とかけ離れた道では…と思うと、なんとも言えぬ抵抗感があった」と同書では説明しているが…。

 78年4月、米国へ旅立った江川は大学の公式戦には出場できず、専ら打撃投手と練習試合での登板で苦しい調整を続けながら、3度目のドラフトを待った。同年10月、ライオンズの球団経営をしていた福岡野球株式会社から西武に経営権が移ると、江川の交渉権も移行されたが、江川は11月にあらためて入団の意思のないことを伝えた。

 そして78年第14回ドラフト会議の前日の11月20日、制度の網の目をくぐる形で、あの「空白の1日」へとつながっていった。 (07年12月3日掲載分再録、一部改変)

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