日めくりプロ野球 12月

【12月30日】1967年(昭42) 未練はあるが…元2冠王・藤本勝巳引退 年の瀬の開店準備

[ 2009年12月1日 06:00 ]

入団当初はそれほど期待されなかったが打者に転向して開眼した藤本。2リーグ分裂後、阪神の選手としては初の本塁打王だった
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 一方的に戦力外通告をされたり、自らユニホームを脱ぐ決断をするプロ野球選手はシーズンオフに平均してざっと80人前後。コーチや裏方としてこの世界に残れる者はひと握りで、多くが別の道を選択しなければならない。
 その中の選択肢として一時期多かったのが、現役時代に稼いだ金や契約金を元手に始める飲食店経営。かつての本塁打、打点の2冠王も静かにバットを置き、年末は大阪・ミナミでクラブを開店するために忙しい毎日を過ごしていた。
 阪神一筋12年で別の道に転進したのは、藤本勝巳内野手。入団4年目の59年(昭34)から22歳の若さで4番を張り、巨人との天覧試合では本塁打も放ったスラッガーは、通算113本塁打の数字を残して引退。水商売への道を踏み出していた。

 「阪神にはいろいろ思い出もあり、未練もある。それでも若手が成長して僕の居場所もなくなってきた。いつまでもしがみついているより、人生をやり直すなら早いほうがいい」と藤本。元タイトルホルダー、ベストナイン2度選出のスター選手、妻は人気歌手の島倉千代子(当時)…。これだけの知名度があれば、野球に固執しなくても店を切り盛りしてなんとか…という計算が働いての30歳の若さでの引退劇だった。この日も店の内装をチェックしたり、食器類を搬入したりと大忙し。1月7日の開店予定日まで時間がなく、慌しい年の瀬となった。
 和歌山・南部高時代は投手。55年(昭30)、契約金15万円、月給2万円で敏腕スカウト青木一三の言うままに入団した。投手はすぐに失格の烙印を押され、入団直後から持ち前のパンチ力がかわれて打者に転向した。
 この配置換えは当たった。ストレートに滅法強く、バットの芯でとらえれば飛距離はリーグ一。徐々に1軍で力を発揮し、59年に4番に抜てきしたのは、ハワイ出身のカイザー・田中監督だった。この年、24本塁打を放ちベストナインに選ばれ、堂々タイガースの顔になった。
 22本塁打76打点で2冠王になった翌年の61年。アベレージを上げることに力点を置いた藤本は打率こそ3割ジャストをマークしたが、コンパクトなスイングをするようになり、豪快なイメージはなりをひそめ、シーズン8本塁打と激減。これが藤本のターニングポイントとなった。苦手な変化球を意識するあまり年々打撃フォームが小さくなってしまい、藤本本来の思い切りのよさがなくなったことで以後成績が低迷。左打者の遠井吾郎一塁手が右投手の時に、起用されるようになると、藤本は左投手専用と使い分けられるようになり、やがて遠井が左投手も苦にしなくなったことで、藤本の存在価値は薄れていった。
 当初は“阪神・藤本の店”ということで話題になったクラブも、ひと段落すると人気で毛では苦しく結局2年で閉店。芸能界の人気者の妻ともすれ違いの生活が続き離婚した。
 その後70年に大阪でスナックをオープンさせ再スタート。今度は「もう僕が阪神に居たことなんて誰も知りませんよ」と本人が言うくらい、店は長続きした。心に余裕ができたのか、ほとんど野球を見なくなった元4番打者は引退後足を踏み入れることをしなかった甲子園に「お客さんの付き合い」と言いつつも、スタンドでタイガースを応援することもあるという。

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