日めくりプロ野球 12月

【12月14日】1960年(昭35) 大リーグより日本でプロに…19歳ディサ、日米11球団争奪戦

[ 2009年12月1日 06:00 ]

鳴り物入りでオリオンズ入りしたディサ。球に力はあったが制球難は克服できず、期待はずれに終わった
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 09年、岩手・花巻東高の菊池雄星投手が高卒即大リーグ行きかと騒がれたが、半世紀前、逆に大リーグではなく日本でプロとしての第一歩を踏み出す希望を表明したプエルトリコ系の米国人がハワイにいた。
 リチャード・ディサ投手、19歳。ハワイのノンプロチーム「ハワイ朝日軍」の右腕は、高校卒業後1年目で2度のノーヒットノーランを含む14勝をマーク。力のあるストレートとスライダーが武器の本格派に大リーグはジャイアンツをはじめにレッドソックス、パイレーツなど8球団が獲得に名乗りを上げた。

 日本でも3球団が手を挙げた。当然、大リーグに行くものと半ばダメもとでの立候補だった。ところが、ハワイから伝わったディサの言葉は意外なものだった。「日本で野球をしたい。大リーグには行かない」。
 日本へハワイに「即戦力の白人右腕がいる」という情報をもたらしたのは熊谷組を中心とした社会人野球の日本代表チームだった。ハワイでの親善試合でディサと対戦し、完璧に封じられたことを大毎(現ロッテ)の球団幹部に報告。10年ぶりにリーグ優勝を果たしながら、大洋(現横浜)にまさかの4タテを食らって敗れた大毎はさらなる戦力強化に乗り出しており、ディサ獲得の方針を決めた。
 大毎の動きを知って、参戦したのが東映(現日本ハム)と南海(現ソフトバンク)だった。3球団ともハワイの日系人や旅行会社を通じて、ディサ側と接触。大リーグ側が日本円にして500万円程度の契約金を提示したのに対し、それ3倍近い額で打診した。
 ディサ自身が金銭面で日本に魅力を感じていたことは確かだが、ハワイ朝日軍の代表は日本人の浜本白正氏。オーナーも日系人だったことから、日本の球団への親近感は少なからずあった。
 「トーキョーで野球がやれるのなら日本でやる」とディサ。この時点で南海入りはなくなった。東映と大毎の勝負になったが、最後は大毎とハワイ野球界との付き合いが最後にものを言った。大毎の親会社毎日新聞は、都市対抗野球をはじめ、社会人野球を支えてきた。ハワイのチームは毎年社会人選抜チームと対戦し、毎日にはひとかたならぬ世話になっていた。その関連球団である大毎がハワイを代表する投手を欲しがっているとあらば、話を聞いてあげるのが筋だった。同じハワイ出身の田中義男コーチ(元阪神監督のカイザー・田中)が在籍していたのも決定の大きな要素になった。
 ディサは翌61年、オリオンズの一員となった。鳴り物入りで入団した期待の右腕は確かに豪速球をビシビシ投げた。初勝利は登板6試合目の5月14日の南海8回戦(後楽園)。完投勝利だった。しかし、課題は残った。被安打はわずか4本だが、3回まで5四死球を出し3失点。この試合7個の三振を上回る8四死球を与えた数字が示すように制球に難があった。
 1年目に5勝、2年目の62年には先発にリリーフにと44試合に登板し9勝(9敗)と頑張ったが、2イニング弱に1個の与四球という不安定な投球は治らず、64年のシーズン途中に近鉄へ移籍。しかし、1勝もできぬまま65年に球界を去った。通算102試合で16勝19敗。制球難に加え、63年のシーズン前に交通事故で右ひじを痛めたのが選手生命を縮める決定的な要因となった。
 近鉄退団後はハワイに帰り、保険会社の社員としてサラリーマン生活をしていたが、まもなく辞職。68年になって再来日した。米軍立川基地内で「レクレーションセンター」の職員となり、基地内の野球チームの監督になった。その後、貿易会社に勤務。長く日本との関係を続けた。
 

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