日めくりプロ野球 12月

【12月4日】1970年(昭45) “切り込み隊長”高倉照幸引退 尾を引いた福岡時代のこと

[ 2009年12月1日 06:00 ]

ヤクルト時代の高倉のバッティング。球界きってのカーマニアとしても知られ、現役時代買い替えた台数は数え切れないほど。自ら自動車部品会社を立ち上げたこともあった
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 戦力外通告を突きつけられる前に、自ら退団届をしたためた。それがプロで18年間やってきた男のせめてもの意地だった。
 ヤクルトの高倉照幸外野手が引退を発表した。「チームは若返りをしようとしている。こんなロートルがいたんじゃ邪魔になる。それに体力の限界だしな。技術的にはまだ3割は打てるけど、いつまでやっていても仕方がない。18年もプロでやれて満足している」。竹を割ったような性格の九州男児は、1611安打と168本塁打の数字を残し、未練を残さずチームを去っていた。

 表向きは“燃え尽きた”という表現になるが、実際のところ高倉はまだプロでやっていく自信があった。それでも自主的に退団しなければ、球団は戦力外通告をする整理選手リストに入っていた高倉はクビになる。引き際は自分で決めたかった。
 サンケイからヤクルトにチーム名が変わった70年、ヤクルトは16連敗を含む92敗を喫し、勝率2割6分4厘で5位中日とも22ゲーム差をつけられるという救いようのない断トツの最下位だった。これを脱出すべく、外部から新監督を招へいすることになり、松園オーナーが白羽の矢を立てたのが、西鉄の監督を7年務めた中西太氏だった。
 中西氏と高倉は西鉄黄金時代を支えた、4番を打った主砲と1番を打った“切り込み隊長”の戦友。が、中西が62年(昭37)に28歳の若さでプレーイングマネジャーに就任すると、66年オフに宮寺勝利捕手とのトレードで巨人へ移籍することになった。球団経営に苦しむ西鉄が巨人・川上哲治監督からのトレード要請を渡りに船とばかり、高給取りの元主力を売り飛ばした形となり、直接は関与していない中西だったが、以来その間柄はかつての親密なものではなくなってしまった。
 結局、ヤクルトの新監督は中西が固辞したため、近鉄監督の任を終えていた中西の義父にあたる三原脩が務めることになり、中西はヘッドコーチに就任したが、球団は中西がやりやすいようにと気を回し、高倉を整理の対象にしたのだった。
 現役18年で先頭打者本塁打が18本。1番打者の代名詞“切り込み隊長”がそのままニックネームになった最初の選手だった。53年(昭28)に投手として入団も、三原監督の命令で野手に転向。ファームで3番を打ったが、1年目は1軍でわずか3安打。早くも三原監督のノートに“整理対象候補選手”として名を連ねてしまった。
 そんな高倉がチャンスを勝ち取ったのが2年目。中堅のレギュラーだった塚本悦郎外野手が胸部疾患で欠場。その穴を高倉が埋めた。当初は控えの3番手だったが、毎日(現ロッテ)戦で、西鉄が打ちあぐんでいたサウスポー荒巻淳投手にめっぽう強かったことで三原監督の目に留まった。
 選手生活の後半は西鉄の兼任監督となった中西が手首の故障でフル出場できないことから、クリーンアップに座ることもしばしば。その勝負強さは圧巻で、巨人への移籍は川上監督が王、長嶋に続く5番打者として適任と判断してのものだった。3試合だけだがONに代わって巨人の4番に座ったこともある。
 引退後はプロでユニホームを着ることはなく、少年野球の指導者として球界への恩返しをしている。

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