日めくりプロ野球 12月

【12月1日】2005年(平17) 育成ドラフト1期生誕生 大きく羽ばたいた山口鉄也

[ 2008年12月1日 06:00 ]

08年、大活躍した山口(左)。最低年俸240万円でスタートした男は3年目で4500万円にまでなった
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 08年、チーム2位の67試合に登板し、巨人の70年以上の歴史の中で、リリーフのみで初の2ケタ11勝(2敗)をマークした、セ・リーグ新人王山口鉄也投手。坂本勇人遊撃手、越智大祐投手らとともに、リーグV2を果たした巨人の後半戦の快進撃を支えた若武者だ。
 この鉄腕サウスポーの歩んできた道のりは、プロ野球でプレーすることを夢見るあらゆる立場の選手に勇気と希望を与えた。

 05年の高校生ドラフト1巡目で巨人入りした、大型左腕辻内崇伸投手の契約金と年俸は合わせて1億900万円(推定)。その約20分の1で4歳年上の山口は入団した。支度金300万円、年俸240万円。05年12月1日にプロ野球実行委員会で承認され、即行われた育成ドラフトの1期生としての“入門”だった。
 2軍戦には出場できても、支配下登録選手ではないため、1軍の試合には出場できない育成選手。簡単に言えば、プロ野球選手として認められていない卵の状態であった。それを物語る背番号は3ケタの「102」。一線を退いた打撃投手が付ける番号だった。それでも山口はうれしかった。「野球ができるだけで幸せだ」。過酷な体験をした左腕は心底そう思った。
 神奈川・横浜商高出身。高3の夏は県大会8強止まりで甲子園にはたどり着けなかった。プロ入りを希望するも声はかからず、誘ってくれたのは米大リーグのアリゾナ・ダイヤモンドバックス。とは言っても契約金は1万ドル、わずか133万円(当時)のマイナー契約だった。
 マイナーでも日本の2軍かそれ以下の1Aにも入れず、ルーキーリーグが主戦場だった。毎日ハンバーガーばかり食べて、試合が終わればバスで移動する日々。同じルームメイトの選手が姿を消したかと思えば、実はクビになっていた…。そんな出来事の繰り返しで3年の歳月が流れた山口の成績は通算7勝13敗。「このまま米国にいても夢はかなえられない。日本で挑戦しよう」と決意し帰国。自主トレを積み重ねながら、秋に行われるプロ各球団のテストに備えた。
 地元・横浜、新興球団の楽天とたて続けに不合格。スピードは140キロ台を計測していたが、どうしても制球難が克服できなかった。
 もう後がなかった。05年10月末、ジャイアンツ球場での2次テスト。2軍の打者相手に、スリークオーターから投げるチェンジアップが冴えた。次々と空振りを奪う光景を見ていた吉村禎章2軍監督は言った。「これでスライダーを磨けば面白いね」。プロ野球への扉が開いた瞬間だった。
 プロ入りから新人王にのぼりつめるまで、2人の“師匠”との出会いは忘れられない。1人は横浜・工藤公康投手。06年オフ、米アリゾナで当時巨人に在籍していた工藤らとともに自主トレを行った山口。そこで工藤から口すっぱく言われたことは「すべては投球につながっている」という言葉だった。
 トレーニング、食事、睡眠…、どれをとっても最高のピッチングをするためのものであることを説かれた。「一生懸命、がむしゃら」がモットーだった山口にとっては新鮮な発想だった。現在山口の背中には102から99を経て、工藤の番号でもある47番が付いている。
 技術的な進歩を遂げたのは、巨人の正妻・阿部慎之助捕手のひと言だった。「腕を振れ。真ん中だけめがけて投げろ」。シンプルすぎるほどシンプルなアドバイスだが、コントロールを気にするあまり、腕が縮んでいた山口。球威が他の投手より優っているだけにそれさえできれば十分だった。07年、25回3分の1で17四死球を与えていた左腕は、投球回数が3倍近くなった08年、73回3分の2で15四死球と激減。早いカウントから強気の投球ができるようになり、投球内容が格段に良くなった。
 山口の成功は育成ドラフトの存在をクローズアップさせた。3年前、わずか4球団6人だった指名が、4回目を迎えた08年は8球団24人となった。それぞれ総合的な技量としてはまだまだだが、“一芸”に秀でた選手が目を引く。今や死語と化してしまった“ハングリー精神”に満ちあふれた第2、第3の山口が次々と出現して、鳴り物入りで入団した選手やトッププレーヤーを脅かす…。なかなか痛快なシーンが数多く見ることができそうだ。

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