日めくりプロ野球 12月

【12月1日】2005年(平17) 選手会6代目会長にヤクルト・宮本 19年前は第1回総会

[ 2010年12月1日 06:00 ]

 北京五輪出場を目指す星野ジャパンの主将・ヤクルトの宮本慎也内野手が労働組合・日本プロ野球選手会の6代目会長に就任したのは師走に入ってすぐのことだった。前任者はあの球界再編問題に真っ向から取り組んだ、同じくヤクルトの古田敦也捕手。同一球団からの選出は初代の巨人・中畑清会長から2代目の原辰徳会長へ引き継いだ時以来、16年ぶりのことだった。

 労組としてのプロ野球選手会の発足は、85年11月。プロ野球選手は税法上の上では、個人事業主となっており、一致団結して待遇改善やFA制、最低年俸、年金の問題などを経営者側と交渉するために立ち上げた。

 その第1回総会が開かれたのも同じ12月1日。まず巨人、大洋(現横浜)、ヤクルト、西武、日本ハム、ロッテの関東6球団の選手が集まり開催。翌日は関西6球団の選手が集まった。当初「3分の1も来れば」と言っていた中畑会長だが、関東6球団の日本人選手全308人中218人が出席。都合で出られない選手の中には委任状を提出したケースも目立った。

 今でこそ2代続けて会長を出すヤクルトだが、初総会の参加者は角富士夫同球団選手会長、尾花高夫副会長ら3人のみ。この時点で正式に届は出していないものの、事実上脱会状態だったからだ。

 ヤクルト選手会は、労組結成当初は他球団の選手会同様、参加する予定だったが、86年の開幕を前に角選手会長が中畑会長に「脱退したい」と申し出ていた。理由として「球団からの待遇は常識的で特に不満はない」としているが、具体的にはっきりとした理由の説明はなかった。

 当時のヤクルトは12球団で最もファミリー的なチームだった。松園尚巳オーナーの方針で、年俸も大抵は年を重ねるごとに上昇し、契約更改でゴネる選手は皆無というほどだった。

 トレードは最小限、野球を辞めた後も関連企業への就職斡旋など、居心地の良い球団であることは確かで、そういう面では待遇に大きな不満はなかった。球団から選手会に何らかの圧力や脱退することへの交換条件があったのか…。とにかくヤクルトは労組への参加にかなり消極的だった。

 総会で目を引いたのが、まだロッテに在籍していた落合博満副会長の存在。三冠王3度、全てにわたって“オレ流”の男が、積極的に会を盛り上げたのには「どうしちゃったの」という声が四方から聞こえた。

 報道陣シャトアウトで行われた総会だったが、落合は終了後「そもそも組合を作ったのは、こうして下さいと球団に言ってもなしのつぶてだから」「今の野球協約では選手は何年たっても自分の意思は反映されない。フリーエージエント制になれば、好きなチームに移籍もできる」などと、総会の内容のさわりを口にした。普段、報道陣を煙に巻く態度とは一転してじょう舌だった。

 ヤクルトは88年に他球団の要望もあり、労組に復帰。その一方で、落合は92年に脱退。「FA制も機構側の思うままになっている。今出されている条件なら、宣言しない」とも言っていたが、結局93年オフ、FA元年に宣言。うまく利用して、用がなくなったら…とは思いたくはないが、結果的にはそういわれても仕方のない動きに見えた。 (07年12月1日掲載分再録、一部改変)

続きを表示

バックナンバー

もっと見る