日めくりプロ野球 11月

【11月25日】1993年(平5) 広島・大野、テスト生初の年俸1億円超え

[ 2010年11月1日 06:00 ]

 17年かけて年俸が約65倍になった。18年ぶりに最下位に沈んだ広島の中で、1200万円増の1億200万円(推定)で契約更改したのは、リリーフエースの大野豊投手。前年の北別府学投手に続き、球団2人目、テスト生出身選手としては初の1億円プレーヤーとなった。

 フリーエージェント元年のこの年、資格を保有していた大野だったが、行使はせず残留。球団はその“見返り”として大台に乗せた。「本当はあと800万円くらいは行きたかったけど、チームの成績も成績だし、大台に乗ったので良しとしないと」と大野。表情は晴れやかだった。

 「今でも覚えているよ。年俸は月割り13万円。契約金じゃなくて、支度金は手取り90万円だったんだ」。1977年、島根県の出雲信用金庫軟式野球部に所属していた大野は、呉二河球場での広島の2軍キャンプにテスト生として参加。3月8日に球団は入団を発表した。キャンプ参加は1月に出雲へ少年野球教室の指導で訪れた、通算1308安打の広島OBの山本一義元ロッテ監督と知り合ったことがきっかけだった。

 もともとドラフト候補ではあった。出雲商高2年の時に外野手から投手に転向。140キロ前後の直球で島根県内では屈指の左腕となった。噂を聞いたロッテの元優勝監督、濃人(のうにん)渉スカウトが訪れ、オリオンズ入りを勧められたが「胃腸が弱くて夏になるといつも食欲不振。体調を壊していたので自信がない」と断った。ならばとノンプロで野球を続けるつもりで、三菱重工三原のセレクションに参加。しかし、「練習があまりにきつかったので…」と、これも途中でやめて帰ってきてしまった。最終的に選んだ道が、出雲市で唯一野球部のある信用組合への就職。軟式だったが、母親一人の大野は、地元に残るのがベストと考えた末の結論だった。

 全日本軟式野球大会、国体などに出場。練習試合で5回まで15者連続三振を奪うなど、そのレベルは頭抜けていた。日を追うごとにプロへの道を自ら閉ざしたことを後悔していた大野は、密かにトレーニングを積み、21歳で広島の入団テストにトライした。

 防御率135.0からのスタートだった。ファームで4勝したことが認められた大野はルーキーイヤーの77年9月、1軍に昇格。9月4日、広島市民球場での阪神18回戦の8回にデビューを飾った。

 背番号57の最初の仕事は敗戦処理。10点負けている中での登板だったが、打者8人に5安打2四球で自責点5。アウトは1つ取ったが、片岡新之介捕手に満塁本塁打を浴びた。「敗戦処理もできないのか」。言葉に出さなくとも、ベンチの冷たい視線の中で大野のデビュー戦は終わった。

 「もうプロではやっていけない。出雲へ帰ろう」と思い悩んでいた時期に、同じサウスポーのベテランが大野の運命を変えた。78年、南海から移籍してきた江夏豊投手は、広島・古葉竹識監督の「大野を一人前にしてやってほしい」と、23歳の左腕の将来を託した。一匹狼の江夏がどこまでテスト生上がりの投手を面倒見るかと、周囲は注目したが、江夏は1球々々の配球の意味から打者の心理、野手の心理など野球の奥義を諭すように伝授。江夏が広島に在籍した3年間で3勝、5勝、7勝と年々勝ち星を増やし、79年からは江夏の前を投げる、今で言うならセットアッパーの役目を果たすまで成長した。

 81年、江夏が日本ハムへトレードされると、愛弟子が抑えの大任を任せられることになったが、球界を代表するストッパーの後の荷は重く、82年には先発に転向したが、ここの経験が大きかった。88年には沢村賞を獲得し、91年広島の5年ぶりのリーグ優勝時にはまたストッパーとしてカムバックした。

 98年、43歳で引退。広島の左投手としては最多の148勝(100敗138セーブ)をマークした。(07年11月25日掲載分再録 一部改変)
 

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