日めくりプロ野球 11月

【11月29日】1979年(昭54) 最下位のおわびに…ヤクルト“おじさん”クーラー担いで販売

[ 2008年11月27日 06:00 ]

78年10月22日、ヤクルト初の日本一の時に後楽園球場でナインに胴上げされる松園オーナー。退団した選手をヤクルト本社や支社に再就職させるなど、面倒見のいい人情派オーナーだった
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 初優勝から一転して最下位に転落したヤクルト。怒り心頭の松園尚巳オーナーの指令が下った。「ヤクルトレディが1本35円(当時)のヤクルトを売るのにどれだけ汗を流していると思っているんだ。高給取りのくせにだらけた野球をやりおって。本業の仕事がどんなに大変か勉強して来い!」。というわけで、15人の選手が東京・東新橋のヤクルト本社に集合。ヤクルトレディことヤクルトおばさんに連れられ、乳酸菌飲料を売り歩くことになった。
 エース松岡弘投手もいれば、中心打者の杉浦亨外野手、代打の切り札“伊勢大明神”こと伊勢孝夫内野手の顔も。大きなクーラーボックスに満タンにして、ヤクルト“おじさん”になった松岡は銀座3丁目のオフィスにお邪魔し、早速営業開始した。

 ところが、松岡の顔を見るや否や、ヤクルトを買うどころか男性を中心に「サインください」攻撃に遭遇。いつしか女子社員も加わり、ヤクルト販売どころか臨時サイン会となってしまった。
 松岡も気前よくサインばかりしているわけではなかった。「サインはタダだけど、ヤクルト飲んでね」と引き換えに商売。1フロアで30本を売りさばき、さらに新規の定期購入の契約も取った。数時間、徒歩で本社の商品を売り歩いた松岡は「いい勉強になりました。こうやってヤクルトレディのみなさんが足で稼いでいることを思うと、僕らも野球で頑張らないと」。この体験で一念発起した?のか、ヤクルトは80年常にAクラスをキープ。球団生え抜きの武上四郎新監督の下で2位となった。
 そもそもヤクルトが球団経営に乗り出したのは、1968年(昭43)オフのこと。国鉄スワローズから経営権を譲渡されたサンケイグループが運営していたところへ業務提携という形で支援したのが始まりだった。69年はサンケイの冠を付けず、「アトムズ」として戦い、70年からは「ヤクルトアトムズ」となり、本格的に球団経営に参入。現在の(東京)ヤクルトスワローズの名前になったのは、74年に荒川博監督が就任してからのことだった。
 国鉄から球団を買ったサンケイの水野成夫オーナーは、球団を持つ夢を持ち、それが実現したが、経営は苦しく、病気で倒れたのを気に一線から退いた。球団が抱える多額の赤字をなんとかしようと動いたサンケイは水野氏と懇意のヤクルト南喜一会長に手を貸してほしいと頼んだ。南会長は「水野が困っているなら」と手を貸すことにし、46歳にして専務という重責を担っていた、野球は“巨人ファン”の松園氏に任せることにした。
 名物オーナーが少なくなった70年代のプロ野球界で「強くなるためにはいくらでも金を出す。巨人のONはいくらあれば獲れるんだ」と、“バイタリティーが背広を着て歩いている”といわれた松園オーナーは、本気で巨人と商売しようとした。一方で球団経営は“家族主義”をモットーにトレードなども本人がゴネれば凍結するなど、独自の哲学でフロントは振り回された。
 合理主義者の広岡達朗監督が76年途中から成績不振で休養した荒川監督に代わって指揮を執るようになると、しばしば対立。広岡監督はチームを初優勝させる功労者となったが、優勝後も積極的なトレードでチームを常勝軍団にしようとしたのに対し、松園オーナーは異論を唱え、“日本一監督辞任、阪神へ”と報じたメディアもあった。
 79年、広岡は8月に解任された。ヤクルトは一時“松園独裁”のような状態に。選手会が労働組合を立ち上げた中で、ヤクルトだけが脱退したのもオーナーの圧力があったからだった。広岡が去った後のヤクルトは優勝戦線から遠ざかり、万年Bクラスのチームに成り下がった。
 松園が病に倒れたのは89年10月。それと前後して、ヤクルトは野村克也監督が指揮を執り90年代の黄金期を迎えた。91年、オーナ職から退いた松園氏だが、94年12月に72歳で死去。ヤクルトが初のセ・リーグ連覇を果たしたその翌年のことだった。

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