日めくりプロ野球 11月

【11月14日】1997年(平9) “ビッグマウス”川口知哉 マ軍が野茂英雄を超えるオファー

[ 2008年11月11日 06:00 ]

入団時背番号11を希望するも当時はベテラン佐藤義則が付けていたため却下。「いつか11を付ける」と張り切っていたが最後の年の背番号は68だった川口
Photo By スポニチ

 京都の野球名門校、平安高校(現、龍谷大平安)に英語を話す男性から電話がかかってきた。「ぜひとも直接会って話がしたい。契約内容についても詳しく説明したい」。一気にまくしたてた男性は、米大リーグ、シアトル・マリナーズのアームストロング球団社長。電話はこれで3度目。回を増すごとにその口調は熱を帯びるばかりだった。
 対応したのは平安野球部の三條場裕之部長。英語教諭であることから、自然と会話が進むことで連日社長から“ラブーコール”を受けることになった。社長が秋波を送っているのは、同校の左腕川口知哉投手。夏の甲子園準優勝投手、6試合820球を1人で投げきったプロ注目の18歳にだった。

 三條場部長は繰り返し説明した。「川口は日本のプロ野球でやる意志が固い。しかもオリックスでやりたいと話しており、他の球団は断るつもりだ。オリックスでなければ、社会人野球のトヨタ自動車に行く」。
 それでもアームストロング社長は諦めない。それどころか、平安側の意向を無視するかのように条件まで提示してきた。「契約金は300万ドル(約3億7800万円、当時)用意している。よく考えてほしい。明日も電話します」と言って受話器を置いた。
 高校生投手に4億近い契約金はメジャーのドラフト1位でも普通考えられない。あの野茂英雄投手でも最初ドジャースと契約を交わした際には200万ドル(約2億円、当時)だったことと比較すれば、破格のオファーだった。
 内容がどうであれ、電話があれば部長は川口と話し合いの場を持つことにしていた。「本人は驚きながらも大笑いしてました」と部長。その後、川口はあらためて部長に決意表明した。「いくら条件がそろっても、契約金が高くてもアメリカには行きません」。
 川口の強い思いを再確認した部長は、断りの言葉を社長に伝えた。社長は「まだ時間はある。考慮してほしい」と引き下がらなかったが、そうこうしているうちに、21日のドラフト会議当日を迎えた。
 オリックス一本を表明していたにもかかわらず、ヤクルト、横浜、近鉄が果敢に川口を1位指名。意中のブルーウェーブに決まる確率は25%だったが、仰木彬監督自らが「選択確定」の当たりくじを引き当てた。
 「(近鉄)佐々木(恭介)監督の“よっしゃあー”だけは聞きたくなかった」と甲子園でも話題を振りまいた“ビッグマウス”が復活。その後も「仰木監督に会ったら、いつから1軍で使うつもりか聞いてみたい」など、度胸がいいというか、怖いもの知らずというか、聞いている方がハラハラする発言がポンポン飛び出した。
 行動も並みの新人ではなかった。入寮体験では自室で2時間昼寝をしてしまい、報道陣に待ちぼうけを食らわせたり、高校のテストのためキャンプ地に遅れて入ると、仰木監督やイチローがグラウンドで待っているにもかかわらず「おなかペコペコ」と言って、ホテルでカツ丼を平らげてから合流。キャンプ初日もいきなりアップシューズを京都の自宅に忘れてきたことに気づき、スポーツメーカーの担当者に電話をかけて急きょ28センチのシューズを用意させ、球場まではホテルのスリッパで移動した。
 しかし、突飛な言動で注目を浴びた左腕も実力が伴わなければ忘れられるのがプロ。左手首が硬く、制球に難点のあった川口だが、プロでも克服することができず、プロ7年間での1軍記録は9試合で0勝1敗。01年8月29日、ウエスタンリーグの阪神戦16回戦(鳴尾浜)で先発した川口は、初回に先頭打者から7連続四球。6回途中まで15四球を出す不名誉なリーグワースト記録となってしまっさた。おまけにこの日の3暴投を加え、シーズン14暴投も新記録だった。
 「投げ方がわからなくなった」とかつての“ビッグマウス”が弱音を吐くようになったこの頃だった。トライアウトでも拾い上げてくれる球団もなく、04年に引退。甲子園での勇姿がまぶしかっただけに、寂しすぎる幕切れだった。

続きを表示

バックナンバー

もっと見る