日めくりプロ野球 10月

【10月12日】1968年(昭43) 消化試合じゃない 石戸四六 ヨレヨレ完投で球団2人目快挙

[ 2010年10月1日 06:00 ]

 【産経8―7広島】最後はもう何を投げたか覚えていなかった。産経(現ヤクルト)の右腕、石戸四六(いしど・しろく)投手は144球を投げ抜き、完投勝利を挙げた。
 この日、後楽園球場では日本シリーズ第1戦、巨人―阪急が行われていた。華やかな舞台の裏で消化試合をしなければならない選手のモチベーションは上がるわけもなかったが、石戸と産経ベンチは違った。

 ここまで19勝のサイドハンドはチーム最終戦にプロ6年目で初の大台を目指して登板した。広島とのダブルヘッダー第1試合に敗れ、同率3位の望みのなくなった産経はこの背番号20の勝利だけが残された大きな目標だった。
 石戸が20勝してもタイトルに届くわけではなかったが、産経は前身の国鉄から過去18年、金田正一投手以外20勝投手が誰ひとりいなかった。産経になってから初の20勝投手は球団にとっても悲願だった。
 被安打は実に17本を数え、失点は7。普通なら完投できないヨレヨレの数字だが、往年の300勝投手、産経・別所毅彦監督は頑として動かなかった。「この試合は石戸にくれてやる。自分で勝ち星つかみとってこそ意味がある。最後まで投げろ」。試合中の2時間30分、ブルペンで投球練習をする投手は皆無。5回まで投げて勝ち投手の権利を得て後はリリーフ陣に任せる、平成の投手リレーの図式が全く成立しない、投手=完投の時代だった。
 本拠地神宮球場は東京六大学秋季リーグ戦の真っ最中。学生野球のメッカで産経は細々と使わせてもらっていたというのが当時の状態で、仕方なく大洋の川崎球場でダブルヘッダーを行った。第1試合200人、2試合目は400人。計600人がこの日の観客数。これも当時の公式発表で、実数にしたら、ほとんど誰も見ていない状態の中で、石戸は打たれても打たれても最後まで投げ抜いた。
 エピソードに事欠かない投手だった。秋田商高から日立製作所に進み、都市対抗で日鉱日立の補強選手としての活躍したのがスカウトの目に留まり、国鉄、大洋、阪神、大毎(現ロッテ)から声がかかった。日立入社時の野球部の監督が、当時国鉄を率いていた砂押邦信監督だったことでスワローズ入り。契約金800万円だった。
 契約金を手にした石戸は球団事務所を出ると、タクシーを拾い、茨城県日立市まで行き、日立のチームメイトと夜通しドンチャン騒ぎ。翌日、今度は郷里の秋田県大館市まで帰るのにまたタクシーを利用。途中、運転手と意気投合し、福島の温泉旅館で1泊。芸者を呼んで豪勢な夜を過ごしたというからすごい。ここで一晩に10万円近く使い、タクシーの支払いも負けてもらっても計7万円近くにまでなった。
 とにかく酒が大好きで、毎晩のように浴びるほど飲んだ。2日酔いで巨人相手に完投したこともあった。キャンプでも門限破りの常習者。朝帰りも珍しくなかった。20勝をした翌年の大分・佐伯キャンプでは、朝帰りの際にバレないようトレーニングウエアに着替えて宿舎へ。その姿をコーチがたまたま見つけた。この話を聞いた別所監督は石戸が早朝トレーニングをしていると勘違いし「さすが20勝投手は心がけが違う」と若手投手陣の前でほめたというウソのような本当の話もあった。
 しかし、選手寿命を縮めたのも酒だった。20勝から2年後、わずか3勝に終わった石戸は「慢性胃炎、重い肝機能障害」と診断された。節制しない生活態度に加え、チームとの感情のもつれもあり、71年のシーズンイン前に退団。肩も肘も故障したわけではなかったが、通算70勝90敗でユニホームを脱いだ。
 故郷に帰りスナックを経営したが、店名はなんと「神宮」。野球への思いを断ち切ったと周囲には話していたが、それは本心でないことは誰もが気づいていた。80年8月、肝硬変のため39歳の若さで死去。「豪快な人に見えるけど、本当は繊細だった」。同期入団の武上四郎元ヤクルト監督はその素顔をしのんだ。
 

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