日めくりプロ野球 10月

【10月8日】1995年(平7) 他球団からの誘いも…原辰徳 巨人の「4番・三塁」で引退

[ 2010年10月1日 06:00 ]

 【広島3―1巨人】打った瞬間、バットを軽く放り投げた。過去に何度も経験した感触。疑う余地はなかった。巨人・原辰徳三塁手が放ったシーズン6号弾は、東京ドームの左中間スタンド中段に突き刺さった。

 走るスピードは自然とゆっくりになった。5万5000人の大観衆すべてが見つめる中、一歩ずつ踏みしめながらダイヤモンドを周った。三塁コーチスボックスに立つ、篠塚和典コーチとガッチリ握手するため、しばし一時停止。382回目の生還をホームで迎えたのは、原に代わって巨人の4番に座った落合博満一塁手だった。
 巨人のシーズン最終戦。15年にわたる現役生活に別れを告げることを決意した原のこれが引退試合だった。久しぶりの「4番・三塁」でのスタメン出場。7回、広島・紀藤真琴投手から惜別の本塁打を打つあたりはさすがスター選手だった。
 21年前、同じ「4番・三塁」で引退試合に出場した、長嶋茂雄監督も引退当日のダブルヘッダー第1試合で通算444号弾を放ったが、第2試合はシングルヒット1本のみ。原は憧れであり、目標であり、なかなか超えられなかった背番号3ができなかった、引退試合での惜別弾で自ら花道を彩った。
 巨人の4番を張ってきた男にしては、長嶋監督が再度就任してからの3年は寂しい日々が続いた。FA制度が導入されると、巨人は落合をはじめ、ヤクルトから広沢克己内野手らを獲得。加えて毎年のように入れ替わる外国人選手に押し出されるようにして原の存在感は薄くなっていった。試合出場が100試合を割り、それに比例して本塁打数も激減。ルーキーイヤーから続いていた20本塁打以上も93年に12年連続で途切れた。
 特に最後の1年はつらかった。防御率トップの投手陣に対し、貧打で試合を落とすことが多かった巨人だが、それでも原にはなかなか声がかからなかった。代打を送られ、長嶋一茂内野手に代えられたこともあった。引退試合での本塁打でなんとか打率は2割台に乗ったが、1割台をさまよい続けたラストイヤーだった。
 体も万全とはいえなかった。88年ごろからアキレス腱の痛みに耐えながらのプレーが続いた。86年には左手首を骨折。満身創痍でベテランの域に入ると、「自分の思い通りの打撃ができなくなっていた」のは自他とも認めるところだった。
 「正直、他球団からいくつかお呼びがかかった。心の中ではありがたく、うれしい思いもした」。37歳ならば、気持ちも環境も一新すればまだやれる。原の人気や移籍することの話題性もさることながら、他球団の多くが戦力としての価値を認めていた。
 だが、原が選んだのはユニホームを脱ぐことだった。アキレス腱の限界であることを理由の一つに挙げたが、それよりウエートを占めたのが、巨人の4番打者としての誇りだった。
 「巨人軍は、巨人軍独特の何人も侵すことができない聖域があります」。限られた人間しかその位置に長くは立てないジャイアンツの4番を務めた男は、プロ野球選手・原辰徳より巨人軍・原辰徳で終わることを選んだ。

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