日めくりプロ野球 10月

【10月8日】1981年(昭56) 二転三転して白羽の矢が…西武、新監督に広岡達朗を内定

[ 2009年10月1日 06:00 ]

82年、チャンピオンフラッグを手に堤オーナー(左)を訪問した広岡(中央)と根本。西武黄金時代はここからスタートした
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 正式な交渉はまだ1度もなかったが、来季の監督就任はほぼ内定していた。ヤクルトの前監督で、78年にスワローズを球団創立29年目にして初優勝させた広岡達朗氏がこの日、報道陣の前で西武新監督に就任することを表明した。西武の堤義明オーナーが「広岡監督の就任を承認した」という前日の報道を受け、取材陣が東京都内の広岡宅前で直撃したものだった。

 「交渉はまだこれから。しかし、行きたくないチームだったらこうなる前にとっくに断っている。西武は選手の採り方、球場、施設、どれをとっても文句の付けようのない球団だ。その意味ではありがたいお話。これから作り上げていくチームだし、とても楽しみだ」。よほど嬉しかったのだろう。普段クールな広岡がかなりじょう舌に、球団のこと、将来のビジョンなどについて言及した。
 79年8月にヤクルト監督を解任されて2年以上。万年Bクラスのチームを日本一にした広岡には各球団から監督就任要請が相次いだ。特に優勝直後から熱心に誘っていた阪神、西本幸雄監督が勇退する近鉄が積極的だった。
 しかし、関西のチームらしく豪快さがウリのチームに、広岡流のいわゆる管理野球は相反することから、ヤクルトの時のような“空中分解”の苦い経験だけは避けたいと消極的だった。広岡にとって西武は地域的にも、力をつけつつあるチーム状態にも魅力を感じており、いつか球界復帰をとにらんでいた広岡にとって最高の話だった。
 グラウンド上で指揮を執る根本陸夫監督は同時にチーム編成も任されていたGMでもあったが、3年で勝てるチームの土台作りをし、4年目で優勝が狙えるチームにすべく、新人獲得から大型トレードなどでチームを活性化。メンバーがそろいつつあるところで、自分はGMに徹し、後任には常勝軍団として君臨してもらう華も実力もある監督にバトンタッチすべきだと思っていた。
 監督選びは実は根本監督在任中の80年オフから始まっていた。華がある人物として最初に名前が上がったのが、巨人・長嶋茂雄前監督だった。特に堤オーナーが興行の面から考えて長嶋新監督案にはかなり乗り気だった。同時期に大洋も長嶋に積極的にアプローチしていた。大洋がマスコミにも触れ回るようにして大っぴらに動いていたのとは対照的に、西武はその陰に隠れる形で長嶋と水面下で接触した。しかし、長嶋の気持ちは、もしやるのなら巨人と対戦できる大洋という方が強く、話は具体化しなかった。
 実力という点では阪急監督を退いていた上田利治前監督という線もあった。阪急を3年連続日本一にした手腕は文句の付けようがなかった。問題はGMとなる根本と上田はソリが合うタイプではなかったこと。根本が広島の監督を務めていた、68、69年に上田はコーチとして入閣していたが、何度も衝突。自己主張の強い上田に手を焼いた経験があった。しかも、上田退任以来低迷する阪急が復帰を要請しているという情報をキャッチ。根本と上田が会談した翌日、上田は出演したテレビ番組で阪急復帰を表明し、ライオンズ監督の話は流れた。
 西武にとっては何が何でも広岡、ではなかったが、結局消去法で候補に挙がっているうちの一人だった広岡に白羽の矢が立った。結果的に見ればこの選択は正解だった。就任1年目で優勝、2年目は巨人との死闘の末にV2と広岡の妥協を許さない姿勢が、Bクラスの体臭が染み付いたライオンズを劇的に変え、以後の常勝軍団の礎を築いた。本命ではなかったことが意外にも幸運をもたらしたのだった。

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