日めくりプロ野球 10月

【10月30日】1969年(昭44) カメラは見ていた…ブロック名人岡村浩二の股下から左足

[ 2008年10月27日 06:00 ]

決定的瞬間の写真。土井の左足は岡村がタッチする前にホームを踏んでいた。左上は長嶋、その下が岡田功球審
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 【巨人9-4阪急】血の気が引く、とはこういうことを言うのだろうか。スポーツ紙の1面に載った1枚の写真。背番号29を付けた阪急・岡村浩二捕手は本塁をガッチリブロックしていたつもりだったが、その股下から三塁走者の背番号6、巨人・土井正三二塁手の左足が伸び、しっかりとホームベースを踏んでいた。
 土井が弾き飛ばされたように見えたのは触塁した後のこと。転がった土井を見て、岡村は完璧な仕事をしたと自信があったからこそ、岡田功球審の「セーフ」の判定に食ってかかり、小突き、キャッチャーミットであご下にパンチを見舞い、日本シリーズ史上初の退場という汚名にも甘んじたのであった。

 その“プライド”が1枚の決定的な写真で音をたてて崩れ落ちた。「男を下げた。どういう顔をして後楽園に行けばいいんだ…」。恥ずかしいのは仕方がない。強烈なヤジがスタンドから、巨人ベンチから飛ぶだろう。それはいい。が、“重戦車”の異名をとり「オレはバッティングもダメ、肩の人並みだが、ブロックだけはだれにも負けん」と言い張ってきた男が、立教大学の後輩(岡村は中退)である野球選手としては小柄な土井にブロックをやすやすとかいくぐられたという方がショックだった。
 巨人-阪急の日本シリーズ第4戦。阪急が3-0と試合を有利に進めていた4回裏、巨人は土井、王貞治一塁手の連打で無死一、三塁のチャンスを迎えた。岡村の立教での先輩である4番・長嶋茂雄三塁手はカウント2-0から高めのつり球にバットが出かかった。スイングかとも見えたが、岡田球審の判定は「ボール」。「振ったやろ!見えへんのか!長嶋さんやて認めとるで!どこへ目付けとるんや!」。ダミ声の岡村はまくし立てたが、かたくなに岡田はボールと言い張った。この判定が後の退場事件の伏線になったことは否めないだろう。
 “三振”のはずが、カウントは2-3までいった。宮本幸信投手の6球目、長嶋はフルスイングしたが今度は正真正銘の空振り三振。と同時に、一塁走者の王がスタートを切っているのが岡村の視界に入った。岡村は山口富士雄二塁手へ送球。今度は山口の目に本塁へ突入する土井の姿が映った。山口は岡村の送球を二塁ベースの3メートル手前でカット、素早くバックホームをした。
 三塁寄りのホームベースの角に左ひざをつき、右足は一塁側へ伸ばす自慢のブロックで岡村は土井を待ち構えた。計算が違ったとすれば、山口の返球がショートバウンドだったことだ。ホームベースがほとんど見えない完全なブロックだったが、ほんの一瞬ではあるが捕球のため岡村の腰が浮いた。土井の足が入ったのは、そのコンマ何秒間の時だった。
 土井のスチール成功は幸運だけによるものではなかった。土井は岡村の堅固なブロックのフィルムを何度も見て研究し一つの結論を出していた。「岡村さんのブロックはほぼ完璧だったが、わずかに隙間があった。一瞬で踏んで、すぐに反対側に跳んで逃げるしかないと思った」。土井はブロックで跳ね飛ばされたのではなく、セーフになるための一連のプレーだったのだ。V9巨人の勝利への飽くなき執念を感じるエピソードである。
 このダブルスチール成功で巨人は1点を返したが、阪急はまだ2点リードしていた。しかし、この1点以上に岡村の退場は響いた。というより、シリーズそのものの行方を決めてしまった。岡村に代わって中沢伸二捕手がマスクをかぶった。後に阪急の3年連続日本一の立役者の一人となった名捕手も当時はレギュラーにはまだまだ遠い存在。岡村の強気のリードに引っ張られ好投していた2年目の宮本は急に巨人の影に怯えだした。国松彰右翼手、末次民夫中堅手に連打を食らうと、味方の失策も絡み6失点でKO。終わってみれば3点リードの試合が5点差での大敗。巨人はV5まであと1勝とした。
 岡村は恥ずかしさを押し殺して、第5戦に出場。チームは5-3で勝ったが、ムードメーカーも元気がなかった。西宮に戻っての第6戦は2-9で大敗。阪急は3年連続して巨人の軍門に下った。
 岡村はこの年、南海・野村克也捕手を抑え、ベストナインに選ばれた。プロ9年目で打率、本塁打とも最高の成績だった。しかし、この“1枚の写真”事件から風向きが大きく変わった。持病の腰痛に悩まされ、46年オフには東映にトレード。念願のマイホームを手に入れて1年たったばかりだった。相手は立教大出身で1年先輩ながら同期入団の種茂雅之捕手。一からのスタートを誓ったが、腰痛は悪化するばかり。チームが日拓を経て日本ハムになった74年7月、ファーム落ちを命ぜられたことで引退を決意し、同月いっぱいで球界から去った。
 70年オフにのど自慢を生かして、シングルレコード「夜の大阪別れ雨/高松の女」をリリースしたことも。「楽しい思い出の詰まった阪急に必ず戻ってくる」と言って、東映に移籍したが、引退後はコーチなどの声もかからず、郷里の高松で飲食店を経営している。

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