日めくりプロ野球 10月

【10月20日】1980年(昭55) ON“最後の日” 名手もライオン丸も静かに去った

[ 2008年10月18日 06:00 ]

10月21日、長嶋茂雄監督は「男としてのケジメ」と監督を“辞任”。背番号90のユニホームを二度と着ることはなかった
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 【巨人5-3広島】もしこの日が最後と知っていたら、月曜日のデーゲーム、広島であったとしても観客9000人ということはなかっただろう。セ・リーグ2連覇を果たした広島と勝率5割以上をかけて戦う巨人との最終戦は、選手時代から21年間、苦楽を共にしジャイアンツの看板を背負ってきた長嶋茂雄監督と王貞治一塁手が互いに巨人のユニホームを着て臨んだ最後の公式戦だった。

 どんよりとした曇り空の下、広島にとっては近鉄との日本シリーズに向けた調整ゲームだったかもしれないが、巨人にとっては勝てば貯金1、負ければ2年連続勝率5割以下という最低限の意地を見せなければならない試合だった。1度も首位に立てず、ほぼ消化試合となった10月に9勝2敗でようやく3位となった巨人。進退が取り沙汰されていた長嶋監督だが、3年連続のV逸も若手の成長を考慮して「5割確保、来季の後楽園の開幕権を取れれば監督留任」というのが、当時の球団幹部の方針だった。
 試合は先制された巨人が3回にロイ・ホワイト中堅手の29号2点本塁打で逆転。単独最多勝のタイトルがかかる江川卓投手の粘りの投球で逃げ切り、シーズン61勝60敗9分に。本当に最低限ではあったが目標をクリアした長嶋監督は「若手が育ってきた。来年は勝負の年になる」と自ら続投の意欲を試合後の会見で語った。
 一方、打率2割3分6厘、本塁打30本と一本足打法になった62年(昭37)以来、最低の成績に終わった王。最後の打席は8回、福士敬章投手の前にセカンドフライだった。40歳。体力の限界を唱える野球関係者は一人や二人ではなかった。しかし、試合後、背番号1は“41歳・4番”へのこだわりをはっきりした口調で述べた。「ユニホームはいつでも脱げるが、一度脱いだら芸能界のように復帰することはできない。打撃は体力だけじゃない。技術と気力だと信じている。このまま辞めては心残り。今年以上にしんどいだろうが、来年再挑戦する」。
 ところが--。一夜明けると長嶋監督は解任された。「成績が不本意だったということのみで、男としてのケジメをつける。他意はない」と言い切り、辞任であることを強調したが、続投方針が一転し、次の指揮官である藤田元司新監督を巨人軍が用意していたのは、親会社や一部OB主導によるものだということは明らかだった。藤田新監督は長嶋前監督の気持ちを慮って「志半ばで去る」と述べたが、まさにその言葉通りで、この時の長嶋監督の無念さは察するにあまりあるものだった。
 長嶋解任の激震から2週間後の11月4日、「このまま辞めては心残り」とまで言っていた王がバットを置いた。長嶋監督が解任された後「長嶋さんがいなくなったチームの再建への協力は僕の責任」とまで言っていたが、「王貞治としてのバッティングができなくなった」とだけ述べて22年の現役生活に幕を引いた。
 王の場合は長嶋と違った。広島で現役続行宣言をしつつ、自分の中では夏ごろから引退の2文字を意識していた。「今まで見えたボールが速く感じて見えない」とも一部の親しい人には打ち明けていた。それが現役続行宣言を敢えてしていたのは、付き合いのある新聞社などに恥をかかせないためにも、どこかにスクープさせることを嫌がった王独特の“優しさ”からだった。「たとえばどこか1社が“王引退”って書いたら、僕は迷わず現役を続ける」とさえ言ったその姿勢は、28年後にソフトバンクの監督を勇退する時にも貫かれた。長嶋の解任で、一時は現役続行を要請されたが、迷いに迷って最終的には自分の意志を曲げなかった。
 このONお揃いのラストゲームで、V9メンバーの1人で“名手”と呼ばれ、長嶋監督になってからは三塁にコンバートし復活を果たした高田繁内野手(08年、ヤクルト監督)も派手なセレモニーもなくユニホームを脱いだ。「最後に1本打ちたかったが…」と無安打で終わったことが心残りだった。長嶋監督が熱望して大洋から獲得したジョン・シピン二塁手も犠飛で勝利に貢献したものの、この年限りで解雇。80年のシーズン終了を告げる、観客もまばらな中での一戦は、ポストV9時代に終わりを告げる最終ページでもあり、新巨人軍誕生の始まりでもあった。

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