日めくりプロ野球 10月

【10月8日】1994年(平5) 球史に残る「10・8」 動の長嶋茂雄、静の高木守道

[ 2008年10月5日 06:00 ]

勝利の瞬間、マウンド上の巨人・桑田真澄投手は村田真一捕手に飛び上がって抱きつき、大喜び。長嶋茂雄監督にとっては前政権時代の77年以来17年ぶりの優勝だった
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 【巨人6-3中日】瞬間最大視聴率67%を記録した、プロ野球史上初の同率首位、ペナントレース最終戦での“優勝決定試合”。巨人・落合博満一塁手の先制本塁打、松井秀喜右翼手の20号アーチなど4本塁打を放った巨人が、槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の“3本柱”の必勝リレーで中日を力でねじ伏せ、長嶋茂雄監督復帰後初の優勝で幕を閉じた。
 現役時代からスター街道をひた走り、脚光を浴び続けてきた長嶋監督。現役時代の職人、いぶし銀というキャッチフレーズ通り、指揮官としては地味なイメージの中日・高木守道監督。2人は何を思い天下分け目の戦いに臨んだのか。それは2人が歩んできた野球人生を如実に反映した戦いになった。

 「俺たちは勝つ!いいか、もう1回言うぞ。俺たちは勝つ!勝つ!」。決戦3時間前、名古屋市内の巨人軍宿舎の食堂。長嶋監督はミーティングでは珍しく大声で檄を飛ばした。有名な「勝つ3連発」である。
 言葉に出すこと、必ず成功するというイメージを膨らませること。数々の修羅場を乗り越えてきた長嶋監督の、これが勝負に対する究極のスパイスだった。監督自ら気合いを前面に出し陣頭指揮。シビれる決戦を前に指揮官は守りに入らず、攻めの言葉で選手を鼓舞した。ジャイアンツナインのハートに火がついたのはこの瞬間だった。
 決戦前夜から長嶋監督はムード作りに心を砕いた。宿舎でのミーティング。あれこれ言葉はいらなかった。長嶋監督や須藤豊ヘッドコーチが細かく何かをしゃべるより、1本のビデオテープだけで十分だった。
 最終戦での中日の先発は間違いなくエース・今中慎二投手。このサウスポーに巨人は94年だけで5回ひねられていた。唯一攻略したといっていい試合が8月18日、東京ドームでの22回戦。松井の本塁打など5回まで7安打5点を奪ってノックアウト。今中に黒星を付けた。この試合のビデオがミーティングの主役となった。
 ヒットやアウトになっても会心の当たりだけを集めて編集し、こうやれば今中を攻略できるというイメージを各選手に描かせた。「そんなに怖くないだろ?今中は。こうやって打っているじゃないか。明日は彼の投球を全部スタンドインするイメージでバッターボックスに立てくれ」。長嶋監督の言葉でミーティングは終わった。
 長嶋監督は後にこう話している。「勝負どころではデータやセオリーはあまり関係ない。それを超えた強い意志やうまくいった時のイメージを頭の中に描くことが大事。もちろんその裏づけになる練習や努力は必要だけど、チャンスや負けられない試合で勝利を得るには、強い想いが大切になる」。
 ドラゴンズの将、高木監督は長嶋とは対照的に、心静かに決戦の日を迎えた。ナゴヤ球場に行く前、両親の仏壇の前で手を合わせた。「いよいよ今日で終わります。最後まで全うします。見守っててください」。特別信心深いわけでもない。強いて言えば“あの日”から両親と“話をする”ようになった。
 8月31日、東京。巨人戦の前、高木監督は球団社長に呼ばれた。「この成績では(来年以降の)契約は難しい。最後に有終の美を」と言われた。54勝55敗で3位。首位巨人とは残り試合21で7・5差。逆転Vは難しい数字だったが、前年も2位。退任する成績ではなかったが、球団の一部には88年にチームを優勝に導き、ファンの間で人気のあった星野仙一監督の復帰を強く推進する勢力があった。
 辞めるにしても意地がある。よし、最後の最後まで巨人を追い詰めてやる。腹が決まった指揮官の下で、選手も諦めずに巨人を追撃した。9月18日に神宮でのヤクルト24回戦で白星を挙げると、地元に戻って怒涛の9連勝。気がつけば首位に立っていた。とりたてて特別なことをしたわけではない。オーソドックスに攻め、オーソドックスに投手リレーをしただけ。ただ、違ったのは覚悟を決めて戦ったということ。球団は最後の追い上げを評価し、高木続投を表明したが、退団の気持ちは変わらなかった。
 「10・8」で長嶋監督は惜しげもなく3本柱を投入したが、高木監督は今中がKOされても山本昌投手らエース級をつぎ込まず、劣勢の時に起用する中継ぎ投手に任せた。勝負に対する執念が中日には足りなかった、と評論家諸氏は批判したが“慌てず騒がず”これが高木流。そう思えば一大決戦といえども、らしい戦いをしたといえる。
 やはり引き際というものがあるらしい。男は決めた時に、決めたように行動するのが良いのかもしれない。球団は「優勝争いをした監督を辞めさせてはファンに説明がつかない」と強く慰留。高木監督もようやく折れたが、一度辞めると言った監督を選手が遠くから見るようになった。95年、4月に5連敗したドラゴンズは浮上のきっかけをつかめず、5月には最下位に転落。高木監督はシーズン途中でチームを去った。
 あれから13年、高木の名前がドラゴンズ監督人事で挙がることもあったが、実現していない。チームは「10・8」で中日に苦杯をなめさせた、落合博満監督の長期政権体制に入っている。

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